高島秋帆疑獄事件
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鳥居耀蔵が、長崎の町年寄の高島秋帆を幕府に対する謀叛や密貿易の嫌疑で取り調べるため、娘婿の伊沢政義を使嗾した。当時長崎奉行だった伊沢が長崎に下向する際、花井は小笠原貢蔵とともに与力として伊沢に随行し、伊沢の命によって秋帆や関係者たちの罪状と証拠を探った。伊沢政義から鳥居に宛てた書簡によれば、伊沢配下の組与力に花井や小笠原を推挙したのは鳥居であった。 事件の審議の途中で鳥居の上司の老中・水野忠邦が失脚し、鳥居も幕閣を追われた。その後、小笠原も花井も小普請入りとなっている。
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高島秋帆疑獄事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 06:39 UTC 版)
天保13年(1842年)、長崎奉行に就任した伊沢政義が長崎に下向する際に与力として花井虎一らとともに随行し、高島秋帆による「反乱」「会所不正」などの罪状を調べ上げた。 長崎奉行に着任した伊沢から鳥居耀蔵に宛てた書簡の第一信によれば、貢蔵や花井虎一を伊沢の組与力に推挙したのは鳥居耀蔵であったという。 上記の書簡によれば、伊沢は貢蔵を「少々驕慢の気味これあり、同役中と少々不和の兆これあり候、時々教育仕置申し候」と評しており、鳥居宛の第3信では「少々当所の人物に化かされ申し候、……何ひとつ改革の趣意相立てず会所役人になずみ申し候」として会所掛りから呈書掛りへと役替えされたことが記されている。 疑獄事件が落着した後、貢蔵は自ら小普請入りを願い出て、許されている。
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