小田海僊とは? わかりやすく解説

小田海僊

読み方おだ かいせん

江戸後期文人画家下関生。名は瀛、字を巨海別号百谷上洛して呉春円山派を学ぶが、のち文人画転向浦上春琴田能村竹田らと交わる。晩年京都在京文人画家の代表といわれた。文久2年(1862)歿、78才。

小田海僊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 06:35 UTC 版)

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仙山春暁図 絹本着色 1848年
薛濤図 1846年 絹本着色 洛東遺芳館

小田 海僊(おだ かいせん、天明5年(1785年) - 文久2年8月24日1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家通称は良平、は羸(るい)または瀛(えい)。を巨海、は海僊または百谷。

略歴

周防国富海(現在の山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現在の山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派松村呉春に入門し、同門の松村景文岡本豊彦らと名声を競ったが、やがて頼山陽に感化され南画に転向。九州に遊学し、中国時代の古書画模写をするなどして研究を重ねて、独自の画風を確立した。文政7年(1824年)、萩藩御用絵師となり、一時江戸に滞在。2年後、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。

清楚な画風に特徴があり、山水画花鳥画人物画を得意とした。高野山京都御所障壁画(1855年)などの大事業を手掛けている。

文久2年(1862年)歿、享年78。大徳寺黄梅院に眠る。

交友

門弟

著作物

  • 『分類二十四考図』(1843年)
  • 『人物十八描法』

作品

  • 「漁楽図」1825年
  • 「大槻玄沢像[1]」1827年 早稲田大学図書館 重要文化財
  • 「薛濤図」1846年 洛東遺芳館
  • 「仙山春暁図」1848年
  • 「山水図[2]」1849年 京都国立博物館
  • 「飲中八仙之図」1850年 
  • 「少年行之図」下関市立美術館
  • 「班婕妤図」洛東遺芳館
  • 「林和靖図[3]」下関市立美術館
  • 「黄梅院襖絵」 襖8面 黄梅院(京都国立博物館寄託
  • 「山水図」全10図 1853年 個人蔵

文献

関連項目

脚注

  1. ^ 重要文化財「大槻玄沢関係資料」一括のうち



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