まつだいら‐しゅんがく〔まつだひら‐〕【松平春岳】
読み方:まつだいらしゅんがく
⇒松平慶永(よしなが)
松平春嶽
松平 春嶽 (まつだいら しゅんがく)
1828〜1890 (文政11年〜明治23年) |
【政治家】 日本の世界進出を夢見て、慶喜とともに幕政を改革。 |
田安家出身。福井藩主。名は慶永、春嶽は号。有能な人材を門閥にとらわれず登用、開明的な政策をとり名君と称された。将軍継嗣問題では一橋慶喜を推すが、井伊直弼により隠居・謹慎を命じられ、江戸霊岸島に幽閉される。1862年勅旨により政事総裁職として慶喜とともに復帰。慶喜の文久幕政改革をたすけ、世界との通商による日本の富国強兵を主張した。王政復古後は、幕府と朝廷の間に立って慶喜の政権参加に尽力。明治新政府の議定、大蔵卿など要職を担った。 |
年(和暦) | ||
●1828年 (文政11年) | ■シーボルト事件 | 0才 |
●1829年 (文政12年) | ■江戸大火 | 1才 |
●1830年 (天保元年) | ■伊勢御蔭参り大流行 | 2才 |
●1837年 (天保8年) | ■大塩平八郎の乱 | 9才 |
●1839年 (天保10年) | ■蛮社の獄 | 11才 |
●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 | 25才 |
●1855年 (安政2年) | ■安政江戸地震 | 27才 |
●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 | 30才 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 | 32才 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 | 34才 |
●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 | 35才 |
●1867年 (慶応3年) | ■大政奉還 | 39才 |
●1868年 (明治元年) | ■鳥羽・伏見の戦い | 40才 |
●1869年 (明治2年) | ■版籍奉還 | 41才 |
●1871年 (明治4年) | ■廃藩置県 | 43才 |
●1871年 (明治4年) | ■解放令 | 43才 |
●1873年 (明治6年) | ■徴兵制布告 | 45才 |
●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 | 48才 |
●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 | 49才 |
●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 | 49才 |
●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 | 54才 |
●1883年 (明治16年) | ■鹿鳴館完成 | 55才 |
●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 | 61才 |
・勝 海舟 | 1823年〜1899年 (文政6年〜明治32年) | +5 |
・Boissonade G. E. | 1825年〜1910年 (文政8年〜明治43年) | +3 |
・梅若 実 | 1828年〜1909年 (文政11年〜明治42年) | 0 |
・高橋 由一 | 1828年〜1894年 (文政11年〜明治27年) | 0 |
・仮名垣 魯文 | 1829年〜1894年 (文政12年〜明治27年) | -1 |
・吉田 松陰 | 1830年〜1859年 (天保元年〜安政6年) | -2 |
・中村 正直 | 1832年〜1891年 (天保3年〜明治24年) | -4 |
・近藤 勇 | 1834年〜1868年 (天保5年〜明治元年) | -6 |
・Roesler K. | 1834年〜1894年 (天保5年〜明治27年) | -6 |
松平春嶽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/19 08:44 UTC 版)
松平 春嶽 / 慶永(まつだいら しゅんがく / よしなが)は、幕末から明治初期にかけての大名、政治家。越前国福井藩16代藩主[注釈 1]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『福井県史』通史編4 近世二 第六章
- ^ 福井藩記録『続再夢紀事』
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)26頁
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 所功『日本年号史大事典』雄山閣、2014年、P616〜P617
- ^ 久保貴子『近世の朝廷運営 朝幕関係の展開』岩田書院、1998年、第六章「改元に見る朝幕関係」
- ^ 村田氏寿、佐々木千尋『続再夢紀事 第二』日本史籍協会叢書、1921〜22、P400〜404
- ^ 所、2014年、前注5、P54〜P56
- ^ 『越前松平試農場史』
- ^ “幕末期における西洋リンゴ苗木の渡来、およびその弘前藩 浪岡村への移植説をめぐる検証”. 2022年1月19日閲覧。
- ^ 『早稲田清話』P90
- ^ 『早稲田清話』P330
- ^ 角鹿尚計「松平春嶽をめぐる女性たち 3―華族夫人として生涯を全うした春嶽の愛娘―」福井市立郷土歴史博物館『DAYORI』22、2009年10月。福井県文書館資料叢書4-8『越前松平家家譜 慶永』1-5、2007-2011年
松平春嶽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:32 UTC 版)
第十六代越前福井藩主にして政事総裁職。竜馬とは脱藩時に江戸で海舟の紹介で初めて出会った。橋本佐内や由利公正を積極的に登用して藩政改革を断行して成果を上げた。その後に竜馬から海舟の海軍操練塾の資金援助を申し込まれた際は苦しい藩財政にあって資金援助を承諾するなどしていたが、幕末の複雑な情勢に積極的な対応が出来ず幕末の四賢候の一人に挙げられるものの、これといった業績が残せなかった。本人もそれを自覚していたのか維新後に「四賢候などと世間では言われているが、本当の意味で賢候であったのは島津斉彬公唯お一人であり、他は他の凡百の大名よりはマシという程度で自分や山内容堂公など到底及ぶものではない。」との言葉を残していた。
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松平春嶽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/30 08:42 UTC 版)
越前福井藩藩主。維新前後からの交遊関係があった。容堂とは異なり、晩年までその付き合いは続いている。
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