松平春嶽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/25 07:48 UTC 版)
官位履歴

福井市立郷土歴史博物館前の松平春嶽像
※ 日付は明治5年までは旧暦
- 天保9年(1838年)
- 12月11日、正四位下に昇叙し、左近衛権少将留任。越前守を兼任。
- 嘉永4年(1851年)12月16日、左近衛権中将に転任。越前守兼任留任。
- 元治元年
- 慶応3年(1867年)12月8日、維新政府の議定に補任。
- 慶応4年(1868年)
- 明治2年(1869年)
- 明治3年(1870年)
- 7月13日、大学別当と侍読を辞任し、麝香間祗候となる。以降は公職から引退。
- 明治14 年(1881年)
- 明治21年(1888年)
- 9月7日、従一位に昇叙。
- 明治22年(1889年)
参考文献
- 『増補 幕末明治重職補任』日本史籍協会叢書・マツノ書店、2014年
栄典
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[5]
人物・逸話
- 幕末期に鋳造発行された貨幣「文久永宝」の文字は、当時幕府上位閣僚のうち能筆とされた3人の手による。この一部は、春嶽の筆である[要出典]。「文久永寳」の寳の字が「宝」と略されている硬貨が春嶽の筆である[要出典]。
- 『続再夢紀事』、『孝明天皇紀』さらに『逸事史補』には「元治」への改元の際、朝廷が幕府に示した元号案の中で「令徳」を天皇が推していると主張した。「令徳」という言葉に「徳川に命令する」という意味を読み取った幕閣や一橋慶喜らはこれを嫌い、春嶽に相談を持ち掛けるが、春嶽は「もとより天下で最高位にあるのは朝廷である」という趣旨の発言をしたが続いて「『令』という文字を年号に使った先例はない」として元号案の一つにあった「元治」(「元に治まる」の意で「王政復古」の意味合いが強い)を妥協点とすることと提案。慶喜らに懇願され春嶽が説得した朝廷側の中川宮朝彦親王や関白・二条斉敬もこれに同意。無事、新元号は「元治」に決定したという[6][7][8]。
- 『明治天皇紀』や『岩倉公実記』、『逸事史補』といった資料によると「明治」への改元にあたり、菅原家等の学者が複数の元号案を提出、それらを岩倉具視の意を受けた春嶽が「佳号」と判断した2〜3号に絞り込み、最終的には籤引きによって決定されたという[9]。
- 西洋のリンゴを初めて日本に導入したとされる。文久2年(1862年)、春嶽はアメリカ産のりんごの苗木を入手し、それを江戸郊外巣鴨の福井藩下屋敷に植えたのが最初とされる[10](ただし遡ること数年前、巣鴨近隣の板橋にあった加賀藩下屋敷にて先行の栽培記録がある[11])。
評価
注釈
出典
- ^ 「官次第」1838年(天保9)4月19日、「松平錦之丞」の署名(松平文庫)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『福井県史』通史編4 近世二 第六章
- ^ 福井藩記録『続再夢紀事』
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)26頁
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 所功『日本年号史大事典』雄山閣、2014年、P616〜P617
- ^ 久保貴子『近世の朝廷運営 朝幕関係の展開』岩田書院、1998年、第六章「改元に見る朝幕関係」
- ^ 村田氏寿、佐々木千尋『続再夢紀事 第二』日本史籍協会叢書、1921〜22、P400〜404
- ^ 所、2014年、前注5、P54〜P56
- ^ 『越前松平試農場史』
- ^ “幕末期における西洋リンゴ苗木の渡来、およびその弘前藩 浪岡村への移植説をめぐる検証”. 2022年1月19日閲覧。
- ^ 『早稲田清話』P90
- ^ 『早稲田清話』P330
- ^ 角鹿尚計「松平春嶽をめぐる女性たち 3―華族夫人として生涯を全うした春嶽の愛娘―」福井市立郷土歴史博物館『DAYORI』22、2009年10月。福井県文書館資料叢書4-8『越前松平家家譜 慶永』1-5、2007-2011年
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