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浅井八百里

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/21 05:39 UTC 版)

 
浅井 八百里
生誕 1813年10月17日
死没 1849年12月16日
福井藩
父母 浅井政良
権十郎、常次郎
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浅井 八百里(あさい やおり、文化10年9月24日1813年10月17日) - 嘉永2年11月2日1849年12月16日))は、日本江戸時代後期の武士福井藩士)。名は政昭。号は栢庭、秋水軒、清夏堂。字は明卿、士明。通称が八百里[1]。従兄に中根雪江平本平学、息子に権十郎、常次郎がいる[2]。著作に「巡海日記」「清夏集」など[3]

経歴

文化10年(1813年)9月24日に福井藩士浅井新六政良の子として生まれる[1]

文政13年12月10日(1831年1月23日)、祖父の浅井弁左衛門の隠居により、家督を継ぐ[2]天保9年(1838年)、徳川斉匡の子松平慶永が福井藩第16代藩主となると、藩校正義堂の句読師から側向頭取となり、従兄の中根雪江とともに慶永を補佐する[3]。藩政を牛耳っていた守旧派の家老松平主馬罷免後は、改革派に理解を示す家老岡部左膳や側用人天方孫八・秋田八郎兵衛のもとで、中根や鈴木主税、石原甚十郎らと藩政改革を実行する[4]。また、藩史「執法全鑑」28巻の編修にも当たった[3]

嘉永2年(1849年)11月2日、志半ばにして病死。享年37。墓所は福井県吉田郡永平寺町の天龍寺[1]

脚注

  1. ^ a b c 浅井 八百里 | デジタルアーカイブ福井”. 2021年9月28日閲覧。
  2. ^ a b 『福井藩士履歴』一 あ
  3. ^ a b c 浅井八百里とは - コトバンク”. 2021年9月28日閲覧。
  4. ^ 福井市立郷土歴史博物館 協賛・中根雪江先生百年祭事業会『中根雪江先生』



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