本多忠恒
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 明暦3年(1656年) |
死没 | 宝永元年11月10日(1704年12月6日) |
別名 | 団七郎[1]、織部[1] |
戒名 | 松巌院心誉寒月浄円[1] |
墓所 | 東京都江東区白河の霊巌寺[1] |
官位 | 従五位下、伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 近江膳所藩支藩(河内西代藩)主 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 父:本多康将 |
子 | 仙千代、忠統、女子、女子、女子(藤堂良端妻) |
本多 忠恒(ほんだ ただつね)は、江戸時代前期の大名。近江膳所藩主・本多康将の次男で、1万石を分知されて大名に列した。河内西代藩初代藩主とされるが、西代に陣屋を築いたのは子の忠統の代である。伊勢神戸藩本多家の家祖。官位は従五位下、伊予守。
生涯
明暦3年(1656年)、近江国膳所において[1]、膳所藩主・俊次の次男である康将の子として生まれる。当時、膳所藩主本多家(本多彦八郎家、あるいは康俊系本多家)の継嗣は康将の兄である康長であった。しかし、康長は明暦4年(1658年)に家督を継がぬまま没し、代わって康将が継嗣となった。寛文4年(1664年)、康将が膳所藩第2代藩主となるが、万治2年(1659年)12月15日に康将は兄・康長の子である康慶を婿養子に迎え、継嗣とした[2]。忠恒は延宝3年(1675年)8月21日に将軍徳川家綱に御目見した[1]。
延宝7年(1679年)6月18日、康将は隠居し[3]、康慶が跡を継いだ[2]。同日、康将の実子である本多忠恒の分家が認められ[4]、父の領地(7万石[5])のうちから河内国錦部郡、近江国高島郡・甲賀郡において1万石を分与されて大名となった[1][4][5](本多家の家譜[注釈 1]によれば分知は6月19日[5])。同年12月28日には従五位下・伊予守に叙任される[1]。
忠恒の分家は、膳所藩本多家家督を本来の嫡系(康長の系統)に返す一方、「二男」扱いとなった実子を大名とするための措置である[5]。これによって「河内西代藩」が立藩したとされる[7]。ただし西代を居所としたのは、2代目の本多忠統の時代である[1]。忠恒は分家して大名となったが、引き続き膳所を国元の住まいとし、参勤交代において江戸と膳所を往復している[5]。
忠恒は天和元年(1681年)12月25日に駿河田中城の在番を命じられ[注釈 2]、翌天和2年(1682年)3月3日に土屋政直に城を引き渡して江戸に帰府[8]。同年11月、はじめて領地に赴く暇を与えられ[1]、膳所に帰国している[4][8]。その後、駿府加番・京都火消役・江戸本所火消役といった番方の役職を歴任し、宝永元年(1704年)11月10日に江戸で没する[4][9]。跡を次男の忠統が継いだ。
系譜
父母
子女
- 本多忠統(次男)
- 藤堂良端継室
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十五「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.662。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十四「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.659。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十四「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.658。
- ^ a b c d “近世編>第二章>第一節>二>3>河内西代・伊勢神戸藩本多氏”. 富田林市史 第二巻 (本文編Ⅱ). 2024年9月13日閲覧。
- ^ a b c d e 若林喜三郎 1982, p. 124.
- ^ 若林喜三郎 1982, pp. 124, 137.
- ^ “西代藩(近世)”. 角川地名大辞典. 2024年9月13日閲覧。
- ^ a b 若林喜三郎 1982, p. 125.
- ^ 若林喜三郎 1982, p. 126.
参考文献
- 若林喜三郎「本多領神戸藩の成立とその歴史的背景」『大手前女子大学論集』第16号、1982年。CRID 1050845762664953344。 NAID 120006010147。
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