関ヶ原への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 08:45 UTC 版)
蔚山攻防戦の後、宇喜多秀家・毛利秀元・蜂須賀家政ら13将は蔚山・順天・梁山の三城放棄する戦線縮小案(1月26日付、連署注進状)を豊臣秀吉に上申しているが、3月には秀吉の不興を蒙り却下され、僅かに黒田長政の守城が梁山から亀浦に変更されるにとどまった。 この合戦について、軍目付の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直は、蔚山救援軍の陣所に一部の明軍部隊が攻撃を仕掛けたとき、先鋒の蜂須賀家政・黒田長政が「合戦をしなかった」と豊臣秀吉に報告した。このため両者は秀吉の不興を蒙り、とくに蜂須賀家政は三城放棄案の件と併せて秀吉の逆鱗に触れ、領国への逼塞が命じられた。他に目付の早川長政・竹中隆重・毛利高政も秀吉の不興を蒙り領国への逼塞が命じられた。一方、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直には報告の褒美として豊後国内に新地が与えられた。また秀吉は筑後国・筑前国を石田三成に与えようとした。これは三成が辞退したものの、筑後国・筑前国における蔵入地の代官に三成を任じ筑前国名島城を与えた。 しかし、この蔚山城救援諸将に対する処分は後の慶長4年(1599年)に石田三成襲撃事件が発生して三成が失脚すると、発言力を高めた徳川家康は五大老会議を招集し、蔚山城救援諸将に「落ち度がなかったことは歴然としている」との裁定を下し、処分の撤回と名誉回復の処置がとられる。翌慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いが起こるが、このとき蜂須賀家政・黒田長政は東軍につくことになる。 また、この際に譴責を受けた諸将の中には加藤清正なども含まれていたが、彼らは秀吉への報告を行った福原長堯の縁戚である石田三成がこの処分に関わっていると見て反発を深め、後に所謂「七将」と呼ばれる反・石田三成勢力が結成されるきっかけになったとみられており、結果的には関ヶ原の戦いの一因になった事件であったと考えられている。
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