関ヶ原以後の南条氏とは? わかりやすく解説

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関ヶ原以後の南条氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 16:55 UTC 版)

南条氏」の記事における「関ヶ原以後の南条氏」の解説

慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い後南条氏所属した西軍敗北により所領没収され一族他国逃れ没落したその後、元忠は慶長19年1614年)の大坂冬の陣に際して多く一族旧臣とともに大坂城入り戦ったが、元忠は徳川方藤堂高虎内通していたことが発覚して家臣とともに大坂城内にて切腹させられた。元忠の嫡子南条勘右衛門家系その後鳥取藩仕え、元忠の曽孫に当たる南条喜右衛門郡奉行などの要職就いた一方で南条元清は、仕えていた小西家が関ヶ原の合戦敗れて改易された後、同じ肥後国加藤清正熊本藩)に仕え剃髪して元宅と称した。元宅が慶長19年1614年)に没すると、嫡孫元信二男の宜政の間で跡目争い生じた元信細川忠興頼り細川家小倉藩、のち熊本藩)に3000石で召し抱えられた。元信の家は、藩主細川忠利の四男南条元知継いだ継嗣なく絶家した。宜政は大坂豊臣秀頼仕え大坂の陣においても大坂方で参戦したが、妻が徳川家臣の水野勝成の姪であったため、大坂落城時に水野家がこの姪と家族保護した。宜政も水野家に匿われて命を長らえた戦後熊本藩加藤家津山藩森家仕えた。宜政の長男の宗晴は津山藩仕えたが、三男系統幕臣となった

※この「関ヶ原以後の南条氏」の解説は、「南条氏」の解説の一部です。
「関ヶ原以後の南条氏」を含む「南条氏」の記事については、「南条氏」の概要を参照ください。

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