関ヶ原の戦い:安濃津城の戦い
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「分部光嘉」の記事における「関ヶ原の戦い:安濃津城の戦い」の解説
慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐に従軍して小山に至ったが、西軍挙兵の報を受けると家康の指示を受けて安濃津城主富田信高とともに急ぎ伊勢国に帰国した。光嘉は上野城を放棄し、信高の安濃津城に入城してともに守備に当たり、毛利秀元・長束正家ら西軍の大軍の攻勢によく耐えた(安濃津城の戦い)。西軍との交渉が成立し安濃津城は開城し、光嘉は高野山にのぼった。 関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、安濃津城での軍功が賞され、本領安堵の上に奄芸郡内で1万石の加増を受け、2万石の大名となった(伊勢上野藩)。しかし翌慶長6年(1601年)11月29日に死去した。享年50。前年の籠城戦で受けた傷が悪化したためという。 光嘉には実子として分部光勝がいたが、慶長4年(1599年)に早世した。このため、光嘉の外孫にあたる分部光信(長野正勝と、光嘉の娘の間に生まれた子)が嗣子となる。
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