分部光勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/28 07:54 UTC 版)
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時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 元亀2年(1571年) |
死没 | 慶長4年3月29日(1599年4月24日) |
別名 | 忠兵衛[1]、中務[1](通称) |
戒名 | 桂芳院昌岩浄久[1] |
墓所 | 三重県津市河芸町上野の圓光寺 |
主君 | 織田信包、豊臣秀吉 |
氏族 | 分部氏 |
父母 | 父:分部光嘉、母:分部光高養女 |
兄弟 | 光勝、長野正勝室、渡辺久勝室 |
生涯

左から光嘉、光勝(光嘉男)、万(光嘉室)、光高(光嘉養父)の墓。
元亀2年(1571年)[1]、伊勢中山城主[2]分部光嘉(のちに伊勢国上野藩初代藩主)の長男として、奄芸郡中山村(現在の三重県津市栗真中山町)に誕生[1]。母は分部光高養女(分部光恒娘)[1]。
分部家は長野家(長野工藤氏)に仕えた家である。織田信長に従った父とともに、一時期長野家を継いでいた信長の弟・織田信包(長野信良)に属し[1]、その後は豊臣秀吉に仕えて[1]、その馬廻となった。
慶長4年(1599年)3月29日[1]、29歳で早世[1]。光勝の甥(長野正勝の子)にあたる光信が分部家の嗣子となった。
備考
- 光嘉は早世した光勝の菩提を弔うため、光勝寺(津市河芸町上野、臨済宗妙心寺派)を創建した[3]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.6。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.5。
- ^ “伊勢上野城主 分部光嘉が開創した津の光勝寺”. 2022年1月4日閲覧。[信頼性要検証]
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082714/12
固有名詞の分類
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