安濃津城の攻防とは? わかりやすく解説

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安濃津城の攻防

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 09:26 UTC 版)

富田信高」の記事における「安濃津城の攻防」の解説

慶長5年1600年6月徳川家康上杉討伐の軍を起こすと、信高も300名の家臣率いて従軍し榊原康政軍勢属した遠征途中7月12日石田三成挙兵すると、小山評定において他の諸将と同様、家康与力することを決意する富田氏三成同じく近江衆であるが、信高や一白はもともと三成とは不和であったという。 家康は、交通の要衝にある安濃津城確保するために、信高と伊勢上野城分部光嘉先行して帰還し防備固めるように命じた8月1日、信高と光嘉は下野小山から急ぎ出立し東海道進んで池田輝政三河吉田城到り兵船数百借りて三河湾渡った途中伊勢湾海上封鎖する西軍九鬼嘉隆兵船遭遇して乗り込み許したが、嘉隆とは懇意だった信高は西軍属するために東軍から離脱した欺いて虎口脱した伏見城攻略していた西軍は、伊賀方面から伊勢路向けて大軍進出させ、すでに近くまで迫っていた。光嘉は自らの居城である上野城は守るに足りない判断して、同城を放棄し、信高の居城安濃津城合流して東の門を守った。信高は東軍籠城状況伝え急ぎ家康西上してもらうように要請しようとしたが、西軍九鬼勢の海上封鎖により東軍との連絡絶たれており、孤立した態となっていた。鍋島勝茂軍勢包囲される松坂城城主古田重勝も、僅かだが兵力割いて援軍は城の南郭補強した結局、信高は兵1,600(1,700と共に籠城した。対す西軍毛利秀元長束正家安国寺恵瓊宍戸元続吉川広家総勢3のぼった。ところが、いち早く安濃津城攻撃しようとした長束正家軍勢は、浜に上陸した数千の信高の兵船見て東軍本隊到着誤認して鈴鹿亀山山中潰走後でこの間違い気付いて戻ってくるが、信高はこれを夜襲撃破し気勢上げた8月23日9月30日)、安濃津城攻防戦開始された。24日西来寺三重県津市)が兵火焼けて町屋まで延焼この機に乗じて西軍城壁上り始めたので、信高と光嘉は城から打って出反撃した。光嘉は奮闘したが、宍戸元続戦い双方が傷を負って退いた。信高も自ら振るって戦ったが、群がる敵兵囲まれた。そこへ単騎若武者救援駆けつけ危機脱した後世美にして武なり、事急なるを聞き単騎にして出づ鎧冑鮮麗奮然衝昌、衆皆目属す遂に信高を扶く…」とうたわれたこの若武者は、信高の妻であった。しかし戦い劣勢で、二の丸三の丸陥落し詰城追い込まれた。25日、敵が総攻撃に移るなかで、信高は城門開いて突撃500余を討ち取って寄せ手撃退して再び城に籠もった。 26日これ以上戦い継続するのは困難であると判断した高が矢文投じて和議請うたとも、決戦迫って戦い切り上げようとした毛利秀元木食応其仲介として講和成立させたとも、吉川広家降伏勧告を信高が容れたとも伝わるが、いずれにしてもこの日に開城することが決まり、城を明け渡して、信高は一身田町高田専修寺剃髪して出家し高野山に奔った。 「安濃津城の戦い」および「関ヶ原の戦い」も参照

※この「安濃津城の攻防」の解説は、「富田信高」の解説の一部です。
「安濃津城の攻防」を含む「富田信高」の記事については、「富田信高」の概要を参照ください。

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