安濃津城の攻防
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慶長5年(1600年)6月、徳川家康が上杉討伐の軍を起こすと、信高も300名の家臣を率いて従軍し、榊原康政の軍勢に属した。遠征途中の7月12日に石田三成が挙兵すると、小山評定において他の諸将と同様、家康に与力することを決意する。富田氏は三成と同じく近江衆であるが、信高や一白はもともと三成とは不和であったという。 家康は、交通の要衝にある安濃津城を確保するために、信高と伊勢上野城主分部光嘉に先行して帰還し、防備を固めるように命じた。8月1日、信高と光嘉は下野小山から急ぎ出立し、東海道を進んで池田輝政の三河吉田城に到り、兵船数百を借りて三河湾を渡った。途中、伊勢湾を海上封鎖する西軍の九鬼嘉隆の兵船に遭遇して乗り込みを許したが、嘉隆とは懇意だった信高は西軍に属するために東軍から離脱したと欺いて、虎口を脱した。 伏見城を攻略していた西軍は、伊賀方面から伊勢路に向けて大軍を進出させ、すでに近くまで迫っていた。光嘉は自らの居城である上野城は守るに足りないと判断して、同城を放棄し、信高の居城・安濃津城に合流して東の門を守った。信高は東軍に籠城の状況を伝え、急ぎ家康に西上してもらうように要請しようとしたが、西軍・九鬼勢の海上封鎖により東軍との連絡は絶たれており、孤立した状態となっていた。鍋島勝茂の軍勢に包囲される松坂城の城主古田重勝も、僅かだが兵力を割いて、援軍は城の南郭を補強した。結局、信高は兵1,600(1,700)と共に籠城した。対する西軍は毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、宍戸元続、吉川広家ら総勢3万にのぼった。ところが、いち早く安濃津城を攻撃しようとした長束正家の軍勢は、浜に上陸した数千の信高の兵船を見て、東軍本隊の到着と誤認して鈴鹿・亀山の山中に潰走。後でこの間違いに気付いて戻ってくるが、信高はこれを夜襲で撃破して気勢を上げた。 8月23日(9月30日)、安濃津城攻防戦が開始された。24日、西来寺(三重県津市)が兵火で焼けて町屋まで延焼。この機に乗じて西軍は城壁を上り始めたので、信高と光嘉は城から打って出て反撃した。光嘉は奮闘したが、宍戸元続と戦い、双方が傷を負って退いた。信高も自ら槍を振るって戦ったが、群がる敵兵に囲まれた。そこへ単騎、若武者が救援に駆けつけて危機を脱した。後世「美にして武なり、事急なるを聞き単騎にして出づ、鎧冑鮮麗、奮然衝昌、衆皆目属す、遂に信高を扶く…」とうたわれたこの若武者は、信高の妻であった。しかし戦いは劣勢で、二の丸、三の丸が陥落し、詰城に追い込まれた。25日、敵が総攻撃に移るなかで、信高は城門を開いて突撃。500余を討ち取って寄せ手を撃退して再び城に籠もった。 26日、これ以上戦いを継続するのは困難であると判断した信高が矢文を投じて和議を請うたとも、決戦が迫って戦いを切り上げようとした毛利秀元が木食応其を仲介として講和を成立させたとも、吉川広家の降伏勧告を信高が容れたとも伝わるが、いずれにしてもこの日に開城することが決まり、城を明け渡して、信高は一身田町の高田山専修寺で剃髪して出家し、高野山に奔った。 「安濃津城の戦い」および「関ヶ原の戦い」も参照
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