関ヶ原戦後の四国地方の大名配置
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「四国国分」の記事における「関ヶ原戦後の四国地方の大名配置」の解説
関ヶ原の戦いで西軍についた諸将は、完勝した徳川家康によって領地没収など厳しい処分が下された。豊臣恩顧の諸大名で東軍についた山内一豊、藤堂高虎、加藤嘉明は大幅に加増されて四国に配された。なお、関ヶ原の戦前にあたる1598年(慶長3年)と戦後の1602年(慶長7年)の四国地方の大名配置は以下のとおりである。 国領地1598年(慶長3年)石高戦後の処置1602年(慶長7年)石高土佐 浦戸 長宗我部盛親 22.2万石 没収 山内一豊 20.2万石 伊予 国府 小川祐忠 7.0万石 没収 伊予 板島 藤堂高虎 8.3万石 加増のうえ転封 伊予 松前 加藤嘉明 10.0万石 加増のうえ転封 伊予 大洲 池田高祐 1.2万石 没収 伊予 伊予ノ内 安国寺恵瓊 6.0万石 没収 伊予 伊予ノ内 来島康親 1.4万石 転封 伊予 松山 加藤嘉明 20.0万石 伊予 今治 藤堂高虎 20.5万石 讃岐 高松 生駒一正 15.0万石 加増 生駒一正 17.1万石 阿波 徳島 蜂須賀至鎮 17.7万石 加増 蜂須賀至鎮 18.7万石 阿波 住吉 赤松則房 1.0万石 没収 淡路 洲本 脇坂安治 3.3万石 旧領安堵 脇坂安治 3.3万石 山内氏入部に際しては、土佐の領主交代に同意しない長宗我部氏の遺臣が多く、せめて1郡・2郡なりとも長宗我部氏に領地を安堵してほしいという嘆願もあった。長宗我部氏の遺臣のなかでも「一領具足」と称される土佐在郷の武士集団の抵抗は激しく、浦戸城に立てこもったが長宗我部氏重臣の計略によって討ち取られ、273名が磔刑に処せられた(浦戸一揆)。
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