関ヶ原戦後の四国地方の大名配置とは? わかりやすく解説

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関ヶ原戦後の四国地方の大名配置

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:02 UTC 版)

四国国分」の記事における「関ヶ原戦後の四国地方の大名配置」の解説

関ヶ原の戦い西軍についた諸将は、完勝した徳川家康によって領地没収など厳し処分下された豊臣恩顧諸大名東軍についた山内一豊藤堂高虎加藤嘉明大幅に加増されて四国配された。なお、関ヶ原の戦前にあたる1598年慶長3年)と戦後1602年慶長7年)の四国地方大名配置以下のとおりである。 国領1598年慶長3年石高戦後処置1602年慶長7年石高土佐 浦戸 長宗我部盛親 22.2万石 没収 山内一豊 20.2万石 伊予 国小川祐忠 7.0万石 没収 伊予 板島 藤堂高虎 8.3万石 加増のうえ転封 伊予 松前 加藤嘉明 10.0万石 加増のうえ転封 伊予 大洲 池田高祐 1.2万石 没収 伊予 伊予ノ内 安国寺恵瓊 6.0万石 没収 伊予 伊予ノ内 来島康親 1.4万石 転封 伊予 松山 加藤嘉明 20.0万石 伊予 今治 藤堂高虎 20.5万石 讃岐 高松 生駒一正 15.0万石 加増 生駒一正 17.1万石 阿波 徳島 蜂須賀至鎮 17.7万石 加増 蜂須賀至鎮 18.7万石 阿波 住吉 赤松則房 1.0万石 没収 淡路 洲本 脇安治 3.3万石 旧領安堵 脇坂安治 3.3万石 山内氏入部に際しては、土佐領主交代同意しない長宗我部氏遺臣多く、せめて1郡・2郡なりとも長宗我部氏領地安堵してほしいという嘆願もあった。長宗我部氏遺臣なかでも一領具足」と称される土佐在郷武士集団抵抗激しく浦戸城立てこもった長宗我部氏重臣計略によって討ち取られ273名が磔刑処せられた(浦戸一揆)。

※この「関ヶ原戦後の四国地方の大名配置」の解説は、「四国国分」の解説の一部です。
「関ヶ原戦後の四国地方の大名配置」を含む「四国国分」の記事については、「四国国分」の概要を参照ください。

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