繁沢元氏へ改名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 10:00 UTC 版)
豊臣秀吉による九州平定に元氏も従軍したが、天正14年(1586年)11月15日に父・元春、天正15年(1587年)6月5日に兄・元長が従軍中に相次いで病死すると、弟の経言(後の広家)が吉川氏を相続し、元氏は輝元の意向によって同年8月に仁保氏の名跡を神田元忠に譲り、苗字と名を改めて繁沢元氏と名乗った。吉川氏の後継が元氏でなかったのは元氏が病がちであったためとされ、後の文禄・慶長の役も病により出陣できず、広家に家臣を遣わしている。また、広家が家督相続した後しばらくは元氏と広家は不仲であったようで、天正19年(1591年)6月13日に小早川隆景が広家へ宛てた書状では、元氏と融和することを勧めている。 天正15年9月6日には石見国の福屋隆兼旧領である3000貫の地を与えられて石見国浜田城を築き在城し、天正19年(1591年)には九州平定の手当として長門国豊浦郡殿井龍山城を預けられた。これによって元氏の所領は5100貫の地に秋上氏旧領を加えたものとなり、文禄5年(1596年)3月23日の分限帳では、元氏の本領が10371石6斗5升9合、一所衆の杉元良領1133石3斗2升8合、朝倉元息領824石1斗8升7合、河屋氏領22石7斗3升1合で合計12351石9斗5合が元氏の所領となっている。さらに慶長2年(1597年)に広家から安芸国内の2000石を元氏一代限りで分与されたが、当初元氏は2000石のうちの500から600石が課役無しであることを望んで受け取りを渋り、隆景から毛利氏の分国内にも課役の無い者はいないので広家が朝鮮に出兵する前に速やかに受け取るようにと説得を受けている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、毛利氏が長門国と周防国の2か国に減封されると元氏も周防国へと移り、同年11月2日に玖珂郡内に3166石を与えられた。
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