九州国分と新領主の入部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 07:15 UTC 版)
秀吉は同年6月7日(新暦7月12日)、薩摩からの帰途、筑前国箱崎(現在の福岡市東区)に陣を構え、かつては自治都市としての歴史をもつ貿易港博多(福岡市博多区)を直轄都市とした上で、唐入り(明遠征)の基地として筑前国に小早川氏を入封するなど北部九州も含めた九州地方の国分(くにわけ)を沙汰した。 それによれば、小早川隆景には筑前・筑後・肥前1郡の約37万石、黒田孝高(如水)には豊前国のうち6郡の約12万5,000石、立花統虎(宗茂)には筑後柳川城(福岡県柳川市)に13万2,000石、毛利勝信には豊前小倉(福岡県北九州市)約6万石をそれぞれ与えた。 宗麟の子大友義統には豊後一国が安堵された。龍造寺政家、純忠の子大村喜前、松浦鎮信は、それぞれ肥前国内の所領が、宗氏は対馬国が安堵された。また、大規模な蔵入地(豊臣氏直割領)も設定された。 4日後の6月11日には、石田三成・滝川雄利・小西行長・長束正家・山崎片家の5名を町割奉行に任じ、神屋宗湛や島井宗室ら町衆も動員して博多の復興を命じ、6月19日には長崎港での南蛮貿易独占のためバテレン追放令を出し、九州を「五畿内同前」の体制とすることとした(翌天正16年4月には教会領であった長崎を没収して直轄地にしている)。また、これに先だつ6月15日には、対馬(長崎県対馬市)の島主宗義調とその養嗣子宗義智に対し朝鮮国王を上洛させるための使者を派遣するよう命じた。西海道を平定した秀吉は東アジアを視野に入れた施策を次々と打ち出したわけである。 秀吉による九州国分の沙汰ののち、筑前・筑後などが与えられた小早川隆景は立花氏の居城であった名島城(福岡市東区)に入部した。豊前6郡を与えられた黒田孝高は中津城(大分県中津市)を本拠とした。なお孝高の今までの功績に対し石高が抑えられたのは、秀吉が密かに孝高の野心と軍事的才能を怖れたからとも言われる。筑後柳川の立花統虎は、大友氏から独立した直臣の大名として取り立てられることとなった。小早川隆景の養子であった毛利秀包は伊予国宇和郡大洲城3万5,000石の大名であったが、養父隆景より筑後国内に7万5,000石を与えられ、天正16年(1588年)、久留米城(福岡県久留米市)に入った。 島津家久の嫡子島津豊久には日向の都於郡(宮崎県西都市)と佐土原(同佐土原町)が安堵され、秀吉の九州平定以前に島津氏と同盟していた筑前の秋月種実は日向の櫛間(同串間市)・財部(同高鍋町)、種実二男高橋元種は縣(同延岡市)・宮崎(同宮崎市)へ移封された。古くから日向国に勢力を保ち続け、島津氏と対立し九州平定軍の先導役を務め上げた伊東祐兵には、日向の飫肥(同日南市)・曾井(同宮崎市)・清武(同清武町)が与えられた。肥後は、上述のとおり佐々成政に与えられたが、現在の熊本県人吉市を中心とする人吉地方は、相良氏家臣深水長智の交渉努力によって相良頼房に安堵されることとなった。肥前では、鍋島直茂が主家龍造寺氏とは独立した大名として取り立てられ、長崎港をしばしば襲撃し、南蛮船からの通行料徴収を強行した俵石城主深堀純賢は、天正16年、海賊停止令違反として所領を没収された。
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