誕生から養子時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 10:20 UTC 版)
永禄10年(1567年)、毛利元就の九男として生まれる。母は乃美大方で、同母兄に穂井田元清と天野元政がいる。秀包が生まれた時点で長兄(異母兄)の隆元は死去しており、父の元就は71歳、甥の輝元は14歳だった。 元亀2年(1571年)1月、元就の意向によって備後国戸坂氏の75貫の遺領と遺臣を与えられるが、同年5月に同じ備後国の国人の大田英綱が死去し、その遺臣である平対馬守と渡辺河内守に懇願されて大田氏の後継となり、大田元綱(おおた もとつな)と名乗った。この時から白井景俊が家老を務めている。そして天正7年(1579年)に母の乃美大方が小早川氏庶流の乃美氏の出身であるという縁もあり、兄の小早川隆景の養子となり、元服した後は小早川元総(こばやかわ もとふさ)を名乗る。小早川氏に入った際には、隆景より椋梨景家・亀門景信・横山景義など多くの家臣を付けられている。 天正11年(1583年)、人質として甥の吉川広家と共に大坂の羽柴秀吉の下に送られた際に「秀」の字を賜り、秀包(ひでかね)と改名する。人質でありながらもその行動は制限されたものではなく、翌天正12年(1584年)3月の小牧・長久手の戦いや5月の竹鼻城水攻にも秀吉に従い出陣している。秀吉の下にある秀包を母の乃美大方は大変心配し、早期の帰還が叶うよう秀吉に働きかけてほしいと毛利輝元に訴えている。
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