誕生から高等師範学校
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1898年(明治31年)12月6日、愛媛県松山市に瀧幾太郎の次男として生まれる。長男は幼くして亡くなったため、相続者となる。愛媛県師範学校附属尋常小学校・附属高等小学校を終え、1年後の1914年(大正3年)に師範学校に入学した。当時、子供たちに昆虫採集のような博物趣味がブームとなっており、彼はいつとはなしにそうした趣味を持つようになっていた。それが実家の近くに住んでいた小松崎三枝に知られたことが、入学の動機の一つであった。彼女は茨城県東北端の大津出身で文部省の中等教員検定試験の植物・動物に合格した独学の士で、顕花植物だけでなくシダ類、コケ植物、地衣類、キノコ類といった隠花植物を含む植物を集めて学者に同定を依頼し、貝類についても沢山の標本を持っており、その標本室を「目八楼」と名付け数枚の絵葉書を作っていた。師範卒業までの4年間は彼女の指導を受け、この間に生涯の方向が決定づけられたと考えられる。1918年(大正7年)、師範学校を卒業して西宇和郡 真穴村 大島(現八幡浜市)の小学校に赴任した。その夏、「六週間現役兵」として松山の歩兵第22連隊に入営し、兵役を終え幹部適任証をもらった。この島の海岸で貝類を次々と採集してそれを家へ送ったところ、松山中学の5年生である弟巌は京都の黒田徳米に送って名を教えてもらい、貝の略図を描いて名と共に兄庸に送った。これは兄弟にとって好機会であり、これにより三崎半島を隔てて内海と外洋との貝の分布状態は違うということを知った。翌年(1919年)、広島高等師範学校に入学した。高師では博物・地理の専攻になっていたがその中動物は特に得意でもあり熱心だった。4年生になると卒業論文を書くことになっていたが、阿部余四男に指導してもらい、当時までに松山市附近で入手していたヒザラガイ類を記載した。これはそれまでに黒田から名称等を教えてもらっていたことが基礎になっており、阿部から学友であった平瀬信太郎に紹介され、Tryon's Manual of Manual of Conchology, Vol.14 を借り受けて参考にしていた。
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