誕生から高等師範学校とは? わかりやすく解説

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誕生から高等師範学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:36 UTC 版)

瀧庸」の記事における「誕生から高等師範学校」の解説

1898年明治31年12月6日愛媛県松山市に瀧幾太郎次男として生まれる。長男幼くして亡くなったため、相続者となる。愛媛県師範学校附属尋常小学校附属高等小学校終え1年後1914年大正3年)に師範学校入学した当時子供たち昆虫採集のような博物趣味ブームとなっており、彼はいつとはなしにそうした趣味を持つようになっていた。それが実家近く住んでいた小松崎三枝知られたことが、入学動機一つであった。彼女は茨城県東北端の大津出身文部省中等教員検定試験植物・動物合格した独学の士で、顕花植物だけでなくシダ類コケ植物地衣類キノコ類といった隠花植物を含む植物集めて学者同定依頼し貝類についても沢山の標本持っており、その標本室を「目八」と名付け絵葉書作っていた。師範卒業まで4年間は彼女の指導を受け、この間生涯方向決定づけられたと考えられる1918年大正7年)、師範学校卒業して西宇和郡 真穴村 大島(現八幡浜市)の小学校赴任した。その夏、「六週間現役兵」として松山歩兵第22連隊入営し兵役終え幹部適任証をもらった。この島の海岸で貝類次々と採集してそれを家へ送ったところ、松山中学の5年生である弟巌は京都黒田徳米送って名を教えてもらい、貝の略図描いてと共に兄庸に送った。これは兄弟にとって好機会であり、これにより三崎半島隔てて内海外洋との貝の分布状態は違うということ知った翌年1919年)、広島高等師範学校入学した高師では博物地理専攻になっていたがその中動物は特に得意でもあり熱心だった。4年生になると卒業論文書くことになっていたが、阿部余四男指導してもらい、当時までに松山市附近入手していたヒザラガイ類記載した。これはそれまで黒田から名称等教えてもらっていたことが基礎になっており、阿部から学友であった平瀬信太郎紹介されTryon's Manual of Manual of Conchology, Vol.14借り受けて参考にしていた。

※この「誕生から高等師範学校」の解説は、「瀧庸」の解説の一部です。
「誕生から高等師範学校」を含む「瀧庸」の記事については、「瀧庸」の概要を参照ください。

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