日泰同盟の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 10:17 UTC 版)
「日本軍進駐下のタイ」の記事における「日泰同盟の成立」の解説
1941年12月8日午前9時頃、タイ首相はバンコクに帰還した。帰途最寄りのタイ国軍指揮官に対し、日本軍に抵抗しないように命令してきたが、帰還後は無線で全軍に停戦命令を下達した。タイ首相はただちに日本大使に面会を申し入れ、午前9時30分頃、面会が始まった。 日本はタイに事情を釈明してタイ領通過の必要性と即時停戦処理を要する理由を説明し、1.軍隊通過の承認、2.防守同盟、3.攻守同盟、4.三国同盟加入、いずれかの条約を締結したいと申し入れた。タイ首相は日本が即時停戦命令を出すことを望み、日本が提示した要望の選択肢から単純な軍隊通過協定を選び、末尾条項にあった「日本ハ将来馬来方面ニ於ケル泰ノ失地恢復ヲ考慮スル」を不要とし全文削除を要求した。こうして8日正午頃に協定は成立し、午後3時頃、正式に調印を終えた。タイが通過協定のみで、失地回復の約束も不要とするのは、日本側の戦局が不利な場合に英国との国交調整で、中立を堅持したかったが日本の圧倒的な兵力の前に日本の要求を入れざるを得ない状況に追い込まれたと釈明するためと推測される。先の停戦命令が徹底されておらず、日タイ間で衝突が起きていたが、8日正午から午後2時までにはおおむね停戦できた。ただし、プラチャップでは通信機故障のため、宇野支隊と長く戦闘が続き、双方に相当の死傷者が出た。 さらに10日夕方にタイ側から日泰攻守同盟の申し入れがあり、ピブーン首相と坪上貞二駐タイ特命全権大使との間で21日に正式に調印された。12月10日夜半に攻守同盟決定、11日午前11時に攻守同盟仮調印が行われている。
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