日活〜大映へとは? わかりやすく解説

日活〜大映へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:32 UTC 版)

阪東妻三郎」の記事における「日活〜大映へ」の解説

1937年昭和12年5月谷津撮影所整理して裸一貫日活に移る。独立時代違って商業主義的な大作次々と出演し芸歴一段と大きくなったが、独立時代深刻な人間探求続けた成果実り名優としての評価加わったセリフをすべて暗記するまで仕事にかからなくなったのはこのころからである。役柄では『恋山彦』の伊奈小源太、『柳生月影抄』の柳生十兵衛、『闇の影法師』の縣佐馬之助、『忠臣蔵』の大石内蔵助、『富士に立つ影』の佐藤菊太郎と、オーソドックス武士扮して堂々の貫禄示した『将軍と参謀と兵』では師団長中将扮して支那大陸背景現代武人典型見せ名実ともに斯界王座占めた1942年昭和17年)、『将軍と参謀と兵』田口哲監督)で、初の現代劇主演この年日活再編成され大映となり、阪妻もこれに合流創立記念作『維新の曲』(牛原虚彦監督)は、阪妻千恵蔵、右太衛門アラカンという「四大スタア」の顔合わせもあり大ヒットとなる。 1943年昭和18年)、軍徴用にひっかかるが、嵐寛寿郎によると「あの人豪胆やさかい呼び出し応じまへん」とのことで、「役者阪妻お国の役に立たなくて、田村伝吉何の用がおます」と啖呵を切り、出頭せずじまいで済ませてしまった。 戦時中はほかに『血煙高田の馬場』、『魔像』、『江戸最後の日』、『無法松の一生』などの傑作主演1944年昭和19年)、8カ月にわたる上海ロケの末、日華合作映画狼火上海に揚る』(稲垣浩監督)を完成封切り時は日支双方とも空襲のさなかで映画鑑賞のゆとりなどはなかったという。 1945年昭和20年)、日活撮影所連日京都師団査閲訓練を受け、映画撮影どころでなくなる。阪妻稲垣に「上陸されたらおしまいでしょう」と戦況語っている。8月15日日本敗戦阪妻撮影所企画室で、稲垣浩二人で黙って手を握り合ったという。 戦後占領軍の「チャンバラ禁止令」のために剣戟ができず、慣れない洋服着て現代劇出演1947年昭和22年)、『素浪人罷り通る』(伊藤大輔監督)で時代劇復帰

※この「日活〜大映へ」の解説は、「阪東妻三郎」の解説の一部です。
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