日活から松竹へ
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明大商科を卒業して1924年(大正13年)3月4日に日活京都撮影所へ入社する。入社第1回作品は溝口健二監督の『塵境』で、浦辺粂子を相手役に樵夫を演じた。当時の日本人としては珍しい長身でがっしりとした体躯、エキゾチックな容貌で、たちまち新しい二枚目俳優として人気を集め、学生スポーツ映画『我等の若き日』、村田実監督の『金色夜叉』、溝口監督の『曲馬団の女王』などに主演した。 1925年(大正14年)1月、鈴木は日活宣伝部の企画で東海道オートバイ旅行を行い、所員総出の見送りで京都を出発するが、箱根の宿に待ち構えていた松竹側の人間に口説かれて、歓迎陣が待つ日活へ行かずに松竹本社の玄関にオートバイを横付けにし、そのまま松竹蒲田撮影所に入社する。これは松竹のスター女優だった梅村蓉子が日活に引き抜かれたお返しに松竹が画策したことであった。蔦見丈夫監督の『春は来れり』が蒲田第1作となり、『恋の選手』以降は牛原虚彦とのコンビで明朗な青春映画に多く出演する。1926年(大正15年)は菊池寛原作の『受難華』で栗島すみ子、筑波雪子らと共演して人気を高め、1927年(昭和2年)は『昭和時代』『海浜の女王』、1928年(昭和3年)は『近代武者修行』『感激時代』で田中絹代と共演し、続く『彼と東京』では八雲恵美子と共演。この作品は東大出の牛原と明大出の鈴木のインテリコンビの近代的センスに期待するファンを当て込んで北村小松が脚本を書き、大学出のサラリーマンをリアルな生活描写で描いた新鮮さが好評となった。これがシリーズ化され、『彼と田園』では田中絹代を相手役にし、ここに牛原・鈴木・田中のドル箱トリオが完成する。以後もこのトリオで『陸の王者』『彼と人生』『大都会 労働篇』『若者よなぜ泣くか』などが作られ好調を続けた。牛原監督以外では、清水宏監督の『京子と倭文子』、島津保次郎監督の『海の勇者』などに主演し、1926年(大正15年)には『海人 南国篇・都会篇』で監督・脚色も兼ねた。1930年(昭和5年)1月、大幹部に昇進する。
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