日活アクションの時代とは? わかりやすく解説

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日活アクションの時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 07:44 UTC 版)

五反田日活劇場」の記事における「日活アクションの時代」の解説

五反田日活劇場となってからの同館は、日活新設し撮影所1954年開所)が製作する作品封切館として、新作次々公開した。「SYチェーン」が解散する1958年4月日活配給した映画には、同月15日公開された『陽のあたる坂道』(監督田坂具隆主演石原裕次郎)等がある。当時の同館の経営引き続き中央映画興行支配人小針展吉、次いで1960年昭和35年)からは八木宗七観客定員数は668名であった同地域の映画館産業ピークこのあと急速に過ぎ去り1961年昭和36年)には五反田オリンピア映画劇場1968年昭和43年)には五反田大映劇場といった後発組が相次いで閉館した。同館が日活系の封切館になった1950年代末からピーク迎えていた「日活アクションの時代」は、1960年代末には終わり迎えようとしていた。寺山修司1935年 - 1983年)が親しんだのはこの時代であり、五反田舞台にした戯曲レミング』(初演1979年)のなかで、同館について言及している。 日活経営困難のため1969年昭和44年)の撮影所売却(のちに買戻し)、1971年昭和46年)には堀久作退陣同年11月にはロマンポルノ製作・配給踏み切るが、同館は、同年前後時期閉館している。五反田地区映画館は、五反田劇場五反田2丁目2番3号経営簱興行1973年閉館)、五反田東映劇場五反田西1丁目28番2号経営東映1990年閉館)、五反田名画座五反田2丁目3番3号経営五反田名画座1989年閉館)の3館だけが残った。同館の建物はすでになく、跡地には、1974年昭和49年7月日本生命五反田ビル竣工し、現在に至る(2013年7月)。 2013年平成25年)に解体された「五反田日活ビル」(西五反田2丁目7番10号)は、同館跡地とは無関係の場所である。

※この「日活アクションの時代」の解説は、「五反田日活劇場」の解説の一部です。
「日活アクションの時代」を含む「五反田日活劇場」の記事については、「五反田日活劇場」の概要を参照ください。

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