日活アクションの時代
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「五反田日活劇場」の記事における「日活アクションの時代」の解説
五反田日活劇場となってからの同館は、日活が新設した撮影所(1954年開所)が製作する作品の封切館として、新作を次々に公開した。「SYチェーン」が解散する1958年4月に日活が配給した映画には、同月15日に公開された『陽のあたる坂道』(監督田坂具隆、主演石原裕次郎)等がある。当時の同館の経営は引き続き中央映画興行、支配人は小針展吉、次いで1960年(昭和35年)からは八木宗七、観客定員数は668名であった。同地域の映画館産業のピークはこのあと急速に過ぎ去り、1961年(昭和36年)には五反田オリンピア映画劇場、1968年(昭和43年)には五反田大映劇場といった後発組が相次いで閉館した。同館が日活系の封切館になった1950年代末からピークを迎えていた「日活アクションの時代」は、1960年代末には終わりを迎えようとしていた。寺山修司(1935年 - 1983年)が親しんだのはこの時代であり、五反田を舞台にした戯曲『レミング』(初演1979年)のなかで、同館について言及している。 日活は経営困難のため1969年(昭和44年)の撮影所売却(のちに買戻し)、1971年(昭和46年)には堀久作が退陣、同年11月にはロマンポルノの製作・配給に踏み切るが、同館は、同年前後の時期に閉館している。五反田地区の映画館は、五反田劇場(五反田東2丁目2番3号、経営・簱興行、1973年閉館)、五反田東映劇場(五反田西1丁目28番2号、経営・東映、1990年閉館)、五反田名画座(五反田東2丁目3番3号、経営・五反田名画座、1989年閉館)の3館だけが残った。同館の建物はすでになく、跡地には、1974年(昭和49年)7月に日本生命五反田ビルが竣工し、現在に至る(2013年7月)。 2013年(平成25年)に解体された「五反田日活ビル」(西五反田2丁目7番10号)は、同館跡地とは無関係の場所である。
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