日活からの独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 14:18 UTC 版)
1919年(大正8年)、省三は松之助映画を撮ることを止めて彼と訣別。同年7月10日に日活在籍のままミカド商会を設立した。しかし、1ヶ月後の1920年(大正9年)に横田によって日活に吸収され、独立は失敗に終わった。日活に戻った牧野は、日活時代劇を二部製作制にし、第一部で小林弥六に松之助映画を撮らせ、牧野は第二部で歌舞伎役者の市川姉蔵を起用して監督活動を行った。 1921年(大正10年)4月、姉蔵の死去により2部制は廃止、牧野は「興行映画の製作をしない」ことを条件に日活を退社。6月に等持院境内に牧野教育映画製作所を設立した。9月には等持院撮影所を開設し、牧野の助監督の金森万象、日活の監督である沼田紅緑、同時期に製作活動を中止した大正活動映画の俳優らが参加して、本格的に教育映画の製作を行った。 翌1922年(大正11年)、無名の歌舞伎役者を起用して『実録忠臣蔵』を撮り、大ヒットする。歌舞伎や講談の映画化に過ぎず、歌舞伎的な立ち回りが特徴の古臭い松之助映画とは違い、斬新な演出手法を用いて写実的な描写で描き、谷崎潤一郎は松之助映画と比較して「映画的」だと絶賛した。
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