日没後と2日目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:30 UTC 版)
「ハッテラス入り江砲台の戦い」の記事における「日没後と2日目」の解説
暗くなってからのどこかの時点で援軍が砦に到着し始めた。砲艦CSSウォーレン・ウィンスローがオクラコーク砦から幾らかの守備隊を運び込み、その水兵の幾らかも大砲を操作するために残った。このことでハッテラス砦の兵員は700名以上となり、さらにニューバーンからの援軍も期待できた。援軍を連れてきたのは海軍将官サミュエル・バロンであり、ノースカロライナ州とバージニア州の海岸防衛軍を指揮していた。マーティン大佐は疲労困憊を訴え、バロンに指揮を執ってくれるよう要請した。バロンはニューバーンからの援軍が到着すればクラーク砦を取り返すことができると信じていて、これを受けた。 2日目の夜明けに守備隊の望みは消し飛んだ。天候が穏やかになり、北軍の戦隊が戻ってきて艦砲射撃を再開するのを可能にしていた。また輸送船を派遣して援軍を上陸させることも可能だった(1隻の輸送船が入江に入ることができたが、援軍を送るのではなく、負傷者を何人か連れ帰った)。戦隊は当初動き回ることを続けたが、間もなく砦の大砲からの射程から外れていることが分かった。その後の艦船は場所を変えずに、反撃される恐れの無い砦への砲弾を降り注いだ。砦の兵士達は堪え忍ぶしか手段が無かった。約3時間後、バロンは士官達の作戦会議を招集し、喩え損失が極小であるにしても、休戦条件を求めることに決した(実際の死傷者の数は不正確にしか分かっていない。様々な報告書では戦死者の数を4名から7名、負傷者の数を20名から45名としている)。バトラーは降伏を要求し、バロンが応じた。戦闘は終わり、生存者は戦争捕虜キャンプに向かった。捕虜の数は691名に登り、負傷者を含んでいるが逃亡者は含んでいなかった。
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