北部九州説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:35 UTC 版)
神武東征の本来の出発地は北部九州であったとする。根拠は以下の通り。 出発地の記載は「日向国」ではなく「日向」である。『日本書紀』では、日向国の名の由来は景行天皇の言葉であるとされているので、のちの日向国の地名は神武東征の時点では「日向」ではなかったと考えることができる。仲哀紀には日向を「膂宍の空国」、「鹿の角の如き実の無い国」と呼称するなど、日向が不毛の地であったことが窺え、古墳の築造も4世紀後半ないし5世紀に始まった事情もあり、後進地域であったことも神武出発の地とするには不自然である。 日向は固有名詞ではなく、太陽に向かう東向き、南向きの意か美称である。 南九州を出発すると、日向→宇佐→関門海峡→岡(洞海湾→遠賀川)→関門海峡→安芸と、流れの速い関門海峡を二度通ることになる。 「筑紫の日向」は「九州の日向國」ではなく「筑紫國の日向」(福岡県に「日向」の地名がある)と解釈すべきである。たとえば邪馬台国九州説の舞台の範囲でも、伊都国があった福岡県糸島市と奴国があった福岡市の間には日向峠(ひなたとうげ)があり、そこには二級河川の日向川(ひなたがわ)が流れている。福岡県朝倉市には日向石という地名があり、福岡県八女市の矢部川流域には日向神という地名がある。また糸島市周辺には記紀とは異なる日向三代の神話があり、平原遺跡からは原田大六によって八咫鏡に比定される大型内行花文鏡が出土している。 『古事記』では天孫降臨で日向の高千穂を、「韓国(からくに・朝鮮半島南部の国家)に向かい笠沙の岬の反対側」としている。
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