邪馬台国九州説
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本項では、邪馬台国の所在地に関する学説のうち、九州地方邪馬台国九州説(やまたいこくきゅうしゅうせつ)を概説する。
注釈
- ^ 前者は記紀に見える景行・成務・仲哀朝における北九州征伐を想定する[要出典]。後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多い[要出典]が、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある[要出典]。
- ^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし[要出典]、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする[要出典]。
- ^ 畿内説では狗奴国を毛野または桑名や加納などの東海地方の勢力と考えるにしても、官名に対し特別な解釈を与えないようである[要出典]。畿内説の内藤湖南は、彼が邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから、狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は、狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという[要出典]。『魏略』には「拘右智卑狗」とある[要出典]が、古代の日本語は語中に母音が来ることはない[要出典]から、これは誤字と見てよい[独自研究?]。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている[要出典]。
- ^ 現在[いつ?]では、3世紀には既に甕棺は極めてまれにしか存在しなかったことが判明している[要出典]。
- ^ 箸墓古墳と同年代の築造かそれより先行するホケノ山古墳が有棺有槨である上、造営年代が4世紀前半ではないかと疑問視する意見がある[要出典]。
- ^ 九州説では呉に圧力をかけるための厚遇であったとする[要出典]。
- ^ 一般的には魏の領域と考えられている[要出典]。
出典
- 1 邪馬台国九州説とは
- 2 邪馬台国九州説の概要
- 3 概要
- 4 東遷説
- 5 脚注
邪馬台国九州説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 02:42 UTC 版)
詳細は「邪馬台国九州説」を参照 邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、筑後平野説、福岡県の大宰府(太宰府市)、大分県の宇佐神宮(宇佐市)、宮崎県の西都原古墳群(西都市)など、ほとんど九州の全域に渡って諸説が乱立している。その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある。一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある 現代では古田武彦などによる九州王朝説がある。 邪馬台国が九州にあったとする説は、以下の理由等による。 邪馬台国は伊都国の南にあると三回書かれている。 帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では短里説をとれば邪馬台国の位置は九州地方北部にかぎられること。 邪馬台国は海中の島の上にあり、一周が五千餘里(短里でおおよそ300-500 km)とあることから、九州に近い。 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること。 邪馬台国と対立した狗奴国を魏志・魏略共に女王国の南にあると書かれているので、熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古智卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること。これについて畿内説でも「狗奴国」を熊本(球磨)の勢力、「狗古智卑狗」を菊池彦の音訳とする説 はあるので、これ自体は格別に九州説の根拠にはならない。また後漢書では南ではなく東となっており、絶対的な根拠とはできない。 福岡県久留米市には、宝賀寿男など複数の研究者が『魏志倭人伝』に記載される「卑弥呼の塚」と規模や副葬品、主体部の内容がよく一致するとする祇園山古墳がある。 『魏略』には投馬国も水行陸行の記事も存在せず、また里数記事において末廬国から伊都国への行程記事が不自然であることから、水行陸行の記事が後世の加筆と見られる。 卑弥呼の墓について倭人伝は「大いに冢を作る」とあり、冢はしばしば墳丘のない墓を指すところ、北九州には墳丘がない環濠集合墓が多数見つかっている。 逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。 魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸といった規模の集落は、当時の総人口から考えて大きすぎるとする説がある。ただし使者が戸数を直接調べたとは考えられず、倭人から伝聞もあると思われ、判別し難い面がある。 畿内の古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学等の知見から、現在の考古学では3世紀に繰り上げられていること。ただし年輪年代学については法隆寺の木材の件などがあり、また日本において追証試験がほとんどなされていないなど未だ問題が多い。 3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものであり、事実中国では三角縁神獣鏡は殆ど出土していない」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。基本的に九州説では3世紀の紀年鏡13枚の存在については明確な説明をしない。 九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。
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