3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 20:33 UTC 版)
「邪馬台国九州説」の記事における「3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点」の解説
はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を表明し、安本美典や宝賀寿男など、その後の九州論者はほとんどこの説に追随、またはこれに近い説を表明している。 三角縁神獣鏡を、呉の鏡または呉の工人の作であり、呉の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もある。しかし、様式論からは呉の作ではないとされ、少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない。これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代の235年から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。ただし畿内と北九州を別勢力と見た場合、優位性だけで位置を断定できない。 かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないもの 近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載された道具であり、『日本書紀』にも著される矛(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説がある。しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。また、「倭人伝」の記載は、祭祀について触れられたものではないこと、6世紀以前は3種ではなく、多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。
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