邪馬台国九州説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/02 14:41 UTC 版)
本項では、邪馬台国の所在地に関する学説のうち、九州地方邪馬台国九州説(やまたいこくきゅうしゅうせつ)を概説する。
注釈
- ^ 前者は記紀に見える景行・成務・仲哀朝における北九州征伐を想定する。後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。
- ^ 江戸時代後期の国学者による「偽僣説」(九州勢力が朝廷を僭称したとする説。本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など。)
- ^ 現代では古田武彦などによる九州王朝説がある(日本列島を代表する王朝は一貫して九州にあり、白村江の戦い以降、衰亡したとする説。史学雑誌に論文が掲載されるなど学界で注目を集めたこともある。)。
- ^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。
- ^ 畿内説では狗奴国を毛野または桑名や加納などの東海地方の勢力と考えるにしても、官名に対し特別な解釈を与えないようである。畿内説の内藤湖南は、彼が邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから、狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は、狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。『魏略』には「拘右智卑狗」とあるが、古代の日本語は語中に母音が来ることはないから、これは誤字と見てよい。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。
- ^ 現在では、3世紀には既に甕棺は極めてまれにしか存在しなかったことが判明している。
- ^ 箸墓古墳と同年代の築造かそれより先行するホケノ山古墳が有棺有槨である上、造営年代が4世紀前半ではないかと疑問視する意見がある。
- ^ 九州説では呉に圧力をかけるための厚遇であったとする。また前述の古田武彦は、公孫氏政権からいちはやく魏に乗り換えた功績に対する厚遇であるとする。
- ^ 一般的には魏の領域と考えられている。
- ^ 古田武彦は、『古代史の「ゆがみ」を正す』のなかでの谷本茂氏との対談で、【『「邪馬台国」はなかった』の時には75~90mと考えていたが、76~77mという値で現在は考えている】と言っている。
出典
- ^ a b 宝賀 2001, pp. 62–95.
- ^ 岡林, 水野 & 北山 2008, pp. 289–291.
- ^ “ホケノ山古墳と箸墓古墳”. 橿原考古学研究所附属博物館. 2019年10月28日閲覧。
- ^ 奥山 2008, pp. 191–192.
- ^ “『ホケノ山古墳の年代について』”. 邪馬台国の会. 2019年10月28日閲覧。
- ^ 「海に書かれた邪馬台国」
- ^ 「大いなる邪馬台国」ほか
- ^ 若井 2010
- ^ 若井 2010, p. 7-12
- ^ 大正9年『日本古代文化』
- ^ 「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」『歴史における政治と民衆』1986年、「親魏倭王印とその歴史的背景」『日本印章史の研究』雄山閣、2004年)
- ^ 1956年「東洋史上より観たる古代の日本」
- ^ 1960年に刊行された「邪馬台国」、日向起源説。
- ^ 『国家の誕生』ただし、後に坂本博士は「神道史研究(昭和54年1月号)」で田中卓博士の著書『海に書かれた邪馬台国』の見解を支持し、「邪馬台国筑後山門郡説は極めて有力な根拠を与えられた」と評価した。
- ^ 1960年に刊行された「日本の歴史1 神話から歴史へ」の中で邪馬台国の東遷が最も自然な解釈とした。
- 1 邪馬台国九州説とは
- 2 邪馬台国九州説の概要
- 3 概要
- 4 主な比定地
- 5 東遷説
- 6 異説
Weblioに収録されているすべての辞書から邪馬台国九州説を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から邪馬台国九州説を検索
- 邪馬台国九州説のページへのリンク