短里説とは? わかりやすく解説

短里説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 20:33 UTC 版)

邪馬台国九州説」の記事における「短里説」の解説

距離問題については「短里」の概念提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説(周髀算経一寸千里法)である。魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國対馬)までが千里對海國から一大國壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。この短里という概念計測すると、実際に帯方郡から狗邪韓国までの距離が魏志倭人伝記載通り、七千餘里となる。九州説を唱える多くの者は、この短里説を基本論拠としている。またこの短里を採用した場合、径百歩卑弥呼の冢は直径約30m程になり、卑弥呼の冢を箸墓古墳とする説への反論となっている。

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短里説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:41 UTC 版)

邪馬台国」の記事における「短里説」の解説

距離問題については「短里」の概念提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説である。魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國対馬)までが千里對海國から一大國壱岐)までが千里とあるが、地図上の「実距離」はそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。 古田武彦は、魏・西晋時代には周王朝時代用いられ長さ改められたとした。[要出典]これを傍証するように、生野真好による『三国志』全編調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部集中し、「蜀志」には全く見られないまた、魏志」のうちでも後漢から魏への禅譲の年である西暦220年より以前記事には「短里」での記事見当たらず220年以後の「魏志」に集中して現れる考察している。これは、陳寿が、三国志と雖も、「蜀志」については、蜀が漢の伝統守っていたことを記したものと思われる。[要出典]これを「魏朝短里説」という。 これに対して安本美典らの説では「短里は、三国志でも魏志東夷伝三韓条と倭人条のみに見られ、他の箇所では存在しない」として、魏朝制度ではなく、倭韓の地に周の古い度量衡残存し可能性示唆しているが、実際中華中原関わる部分にも頻出する[要出典]。周代度量衡であるかは別として、藤田元春宝賀寿男なども倭韓地短里説を採る。史料里数解釈は、諸論交錯していて、議論決着見えていない。 なお渡邉著書では白鳥庫吉までも短里説論者入れているがこれは誤認であり、白鳥は「全体で」平均すると約5倍になっていると言ってはいるが、個々の数値は1里あたりの実測距離がバラバラであることから、特定の距離単位実在したとは認めていないので、短里説論者ではない[要出典]。

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