短里説
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距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説(周髀算経・一寸千里法)である。魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。この短里という概念で計測すると、実際に、帯方郡から狗邪韓国までの距離が魏志倭人伝の記載通り、七千餘里となる。九州説を唱える多くの者は、この短里説を基本論拠としている。またこの短里を採用した場合、径百歩の卑弥呼の冢は直径約30m程になり、卑弥呼の冢を箸墓古墳とする説への反論となっている。
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短里説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:41 UTC 版)
距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説である。魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、地図上の「実距離」はそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。 古田武彦は、魏・西晋時代には周王朝時代に用いられた長さに改められたとした。[要出典]これを傍証するように、生野真好による『三国志』全編の調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部に集中し、「蜀志」には全く見られない。また、「魏志」のうちでも後漢から魏への禅譲の年である西暦220年より以前の記事には「短里」での記事は見当たらず、220年以後の「魏志」に集中して現れると考察している。これは、陳寿が、三国志と雖も、「蜀志」については、蜀が漢の伝統を守っていたことを記したものと思われる。[要出典]これを「魏朝短里説」という。 これに対して安本美典らの説では「短里は、三国志でも魏志東夷伝の三韓条と倭人条のみに見られ、他の箇所では存在しない」として、魏朝制度ではなく、倭韓の地に周の古い度量衡が残存した可能性を示唆しているが、実際は中華中原に関わる部分にも頻出する[要出典]。周代の度量衡であるかは別として、藤田元春、宝賀寿男なども倭韓地短里説を採る。史料の里数解釈は、諸論が交錯していて、議論の決着は見えていない。 なお渡邉の著書では白鳥庫吉までも短里説論者に入れているがこれは誤認であり、白鳥は「全体で」平均すると約5倍になっていると言ってはいるが、個々の数値は1里あたりの実測距離がバラバラであることから、特定の距離単位が実在したとは認めていないので、短里説論者ではない[要出典]。
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