邪馬台国九州説の立場から見た纒向遺跡
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「ヤマト王権」の記事における「邪馬台国九州説の立場から見た纒向遺跡」の解説
しかし魏志倭人伝によれば、邪馬台国は糸島に比定される伊都国の南にあり、伊都国に一大率を置き諸国を検察したとされ、九州でしか出土していない鉄器や絹を産するとされており、また海に近く海人が海産物を採取していた記載がある。さらに、纒向遺跡の出土遺物は九州、朝鮮由来の物が乏しく、倭人伝に書かれる大陸との活発な交易の跡が見られず、また遺跡自体が海と離れた内陸部にある。 奈良県立橿原考古学研究所の関川尚功は朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、『魏志倭人伝』にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 また、糸島の平原遺跡から出土し三種の神器の八咫の鏡と同じ大きさと様式で関連が問題となる大型内行花文鏡の出土があり、邪馬台国の有力な候補地である久留米には、無槨有棺で殉葬跡との説もある多数の集団墓・甕棺を持ち、規模や形状も記録に近いとされる祇園山古墳の存在からも、邪馬台国九州説も依然として有力である。この説を取る場合、邪馬台国と畿内で発達したヤマト政権の関係において、九州にある邪馬台国が滅亡したのか、あるいは神話の如く畿内に東遷してヤマト政権となったのかが問題となる。 詳細は「邪馬台国九州説」を参照
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