かん‐きょう〔‐キヤウ〕【漢鏡】
漢鏡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/29 01:37 UTC 版)
漢鏡(かんきょう、拼音: )は、中国の漢代(紀元前202年から紀元後220年)に作られた銅鏡の総称[1]。多くが白銅鏡[注釈 1]で、主として化粧道具として用いられた[3]。形状は円形が多く、前漢鏡は鏡面が平坦なものが多いが、後漢鏡以降には凸面鏡が増加する。鏡背(姿を映す鏡面の裏)には、当時の宇宙観や神仙思想[注釈 2]による文様や銘文が描かれた[5][6][7]。それらにより分類された「鏡式」は考古学の分野で遺物・遺構の年代を推定する手がかりとされる。特に銘文に元号を記す「紀年銘鏡」は、年代研究に極めて重要な役割を果たしている[8]。また漢鏡の図像や銘文の研究は中国の思想史・文学史でも注目されている[9][10]。
注釈
- ^ 近世以降には銅とニッケルの合金を白銅と定義しているが、それ以前では青銅のなかでも特に錫の含有量が高く、25 %から30 %のものを白銅(white bronze)としていた。考古学など歴史的な分野においてはでは現在でもこの意味で白銅と言うことが多い。青銅の錫の含有量が増えると、色が10円硬貨のような赤みを帯びた色(赤銅色)から白銀色に変化し、硬く脆くなるという特徴がある[2]。
- ^ 不老長寿の仙人の実在を信じて、みずからも仙術によって仙人たらんことを願った思想[4]。
- ^ 出土地の最西端はアフガニスタンのティリヤ・テペ遺跡である[11]。
- ^ 岡村編年には細部について異論もあるが[36]、本記事では岡村案をそのまま記載する。
- ^ 尚方作の中には鋳上がりの悪いものもあり、民間工房が詐称したコピー品があるという説もある。また上方作と記す仮借もみられる[55]。
- ^ 鈕の周囲の高まり[58]。
- ^ 2世紀中葉ごろからは「尚方鏡」のなかに「董氏造作」など製作工房を示すと思われる銘文が現れるが、これらは尚方から委託されて個人工房などが製作した鏡と考えられる[63]。
- ^ 雲車に載る太一・三足烏をもつ日神・ヒキガエルをもつ月神・獣にのる仙人らが疾走する図像[79]。
- ^ 鏡背の中央にある盛り上がっている部分。紐を通す孔(鈕孔)が開けられている[58]。
- ^ 漢鏡3期が副葬される甕棺は、いずれも弥生時代中期後半の立岩式である[135]。
- ^ 出土した破片を集めて復元しても完形にならない事から、破片の抜き取りが行われた可能性が指摘されている[163]。
- ^ 破鏡として出土した鏡は、同じ鏡と思われる破片がひとつも特定できていない事も特徴である[168]。
- ^ 倭製鏡とは日本で製作された鏡の事。かつては真似た鏡を意味する仿製鏡(模倣鏡)と呼ばれたが、日本独自の特徴も見られる事から、倭製鏡と呼ばれるようになった[175][5]。
- ^ 過去には朝鮮半島南部で製作されたものが北部九州に流入したとする説もあったが[177]、日本での漢鏡需要の高さや三韓地域で銅鏡文化が根付かなかったことから、2000年代からは北部九州で生産されたものが朝鮮半島に輸出されたとする説が有力である[176]。
- ^ 画文帯神獣鏡は5世紀から6世紀の古墳からも出土するが、これは倭の五王時代の踏み返し鏡と考えられる[185]。
- ^ 画文帯神獣鏡の破鏡は九州のみで見られる[185]。
- ^ 漢鏡7期を3段階に分ける岡村説について、これを日本列島での分布を便宜的に分類したものに過ぎず編年を細分化するのは難しいとする説もある[186]。
出典
- ^ a b コトバンク: 漢鏡.
- ^ a b 田辺義一 1971, p. 445.
- ^ a b 岡村秀典 2017, p. 13-16.
- ^ コトバンク: 神仙思想.
- ^ a b c 辻田淳一郎 2019, p. 15-17.
- ^ a b 辻田淳一郎 2019, p. 24-26.
- ^ a b c 森下章司 2019, p. 13.
- ^ 森下章司 2019, p. 16.
- ^ 岡村秀典 1984, p. 661.
- ^ a b 岡村秀典 2017, p. 44-46.
- ^ a b c d 森下章司 2019, p. 25-28.
- ^ a b 辻田淳一郎 2019, p. 8-9.
- ^ a b 森下章司 2019, p. 19-20.
- ^ コトバンク: 漢式鏡.
- ^ 岡村秀典 2011a, p. 3-4.
- ^ 岡村秀典 2011a, p. 4-5.
- ^ 岡村秀典 2011a, p. 9-10.
- ^ 岡村秀典 2011a, p. 7-8.
- ^ 岡村秀典 2011a, p. 10-12.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 12-14.
- ^ 岡村秀典 2011a, p. 12-13.
- ^ 岡村秀典 2011a, p. 13-15.
- ^ 岡村秀典 2011a, p. 15-17.
- ^ 岡村秀典 2011a, p. 17-18.
- ^ 田中良之 2011, p. 133.
- ^ 宮本一夫 2011, p. 34-35.
- ^ 岡村秀典 2011a, p. 20-22.
- ^ 岡村秀典 2011a, p. 18-19.
- ^ a b c 辻田淳一郎 2019, p. 68-72.
- ^ 森下章司 2007, p. 35-36.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 5-9.
- ^ 森下章司 2019, p. 21.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 126.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 127-128.
- ^ 實盛良彦 2019, p. 8-9.
- ^ 南健太郎 2019, p. 16-17.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 1-5.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 125-128.
- ^ a b c 辻田淳一郎 2019, p. 37-40.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 33-34.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 34-37.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 38-40.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 40-41.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 42-44.
- ^ a b c d e 岡村秀典 1999, p. 12-15.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 55-58.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 58-60.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 60-64.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 51-52.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 53-55.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 64-66.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 66-69.
- ^ a b 岡村秀典 2017, p. 66-72.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 73-75.
- ^ 岡村秀典 2011b, p. 17-18.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 78-80.
- ^ 岡村秀典 2012, p. 527-525.
- ^ a b 實盛良彦 2019, p. 5-6.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 82-83.
- ^ 岡村秀典 2012, p. 522-521.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 83-84.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 84-85.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 147-150.
- ^ a b 岡村秀典 2017, p. 86-88.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 88-92.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 105-108.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 126-130.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 109-110.
- ^ a b 岡村秀典 2012, p. 492-490.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 110-113.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 113-116.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 116-121.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 131-134.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 121-122.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 137-138.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 138-142.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 142-145.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 145-147.
- ^ a b 岡村秀典 2017, p. 150-152.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 154-157.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 157-160.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 160-164.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 166-169.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 169-178.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 178-182.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 190-193.
- ^ a b 岡村秀典 2017, p. 193-194.
- ^ 馬渕一輝 2019, p. 179.
- ^ 森下章司 2007, p. 45-46.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 209-210.
- ^ 上野祥史 2019, p. 37-43.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 17-18.
- ^ a b 岡村秀典 2017, p. 18-21.
- ^ 南健太郎 2019, p. 205-206.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 21-22.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 24-26.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 22-24.
- ^ a b 西村俊範 2012, p. 95-102.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 102-105.
- ^ 岡村秀典 2017, p. 76-78.
- ^ a b c 三船温尚 2019, p. 149-151.
- ^ 上野祥史 2019, p. 31-32.
- ^ 南健太郎 2019, p. 36-48.
- ^ 森下章司 2019, p. 14.
- ^ 馬淵久夫 2011, p. 43-44.
- ^ 馬淵久夫 2011, p. 54.
- ^ 馬淵久夫 2011, p. 58-59.
- ^ 岡村秀典 2011b, p. 53-54.
- ^ 馬淵久夫 2011, p. 56.
- ^ 森下章司 2019, p. 14-16.
- ^ a b 森下章司 2019, p. 17-19.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 43-44.
- ^ a b 岡村秀典 1999, p. 46-47.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 44-46.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 115-118.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 124-125.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 169-173.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 10-12.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 21-22.
- ^ a b c d 辻田淳一郎 2019, p. 72-76.
- ^ 森下章司 2016, p. 95-99.
- ^ 高松市教育委員会 1983, p. 59-60.
- ^ a b 岡村秀典 1999, p. 75-77.
- ^ a b 森岡秀人 1993, p. 21-22.
- ^ 寺沢薫 2004, p. 342-364.
- ^ a b 寺沢薫 2005, p. 13-15.
- ^ 南健太郎 2007, p. 200.
- ^ a b c d 辻田淳一郎 2019, p. 94-98.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 77-79.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 90-93.
- ^ 南健太郎 2019, p. 62-66.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 22-23.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 8-9.
- ^ a b c d 辻田淳一郎 2019, p. 40-46.
- ^ a b 岡村秀典 1999, p. 32-36.
- ^ a b 辻田淳一郎 2019, p. 52-54.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 37-39.
- ^ a b c 南健太郎 2019, p. 97-103.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 46-51.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 51-52.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 54-55.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 47-48.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 48-51.
- ^ a b c 辻田淳一郎 2019, p. 77.
- ^ a b c 辻田淳一郎 2019, p. 88-89.
- ^ a b c d e 辻田淳一郎 2019, p. 78-80.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 54-55.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 55-57.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 57-59.
- ^ a b c d 上野祥史 2014, p. 351-353.
- ^ a b c 辻田淳一郎 2019, p. 102-107.
- ^ a b 岡村秀典 1999, p. 94-96.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 80-81.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 69-71.
- ^ a b 岡村秀典 1999, p. 118-119.
- ^ 平尾和久 2007, p. 10-11.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 80-83.
- ^ 下垣仁志 2018, p. 00-104.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 120-122.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 98-99.
- ^ 上野祥史 2014, p. 354-355.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 107-110.
- ^ a b 平尾和久 2007, p. 1-3.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 66-67.
- ^ a b 藤丸詔八郎 1993, p. 107-110.
- ^ 森岡秀人 1993, p. 25.
- ^ a b c d 辻田淳一郎 2019, p. 86-87.
- ^ 藤丸詔八郎 1993, p. 93-94.
- ^ 藤丸詔八郎 1993, p. 94-96.
- ^ a b c 辻田淳一郎 2019, p. 84-86.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 108-109.
- ^ 平尾和久 2007, p. 7-10.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 71-75.
- ^ 南健太郎 2007, p. 2233-235.
- ^ 田中琢 1977, p. 173.
- ^ a b c 辻田淳一郎 2019, p. 81-83.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 68-69.
- ^ 南健太郎 2019, p. 232-233.
- ^ 加藤一郎 2019, p. 88-89.
- ^ 南健太郎 2007, p. 201-202.
- ^ 南健太郎 2007, p. 206-207.
- ^ a b 辻田淳一郎 2019, p. 134-139.
- ^ a b 岡村秀典 1999, p. 128-134.
- ^ 上野祥史 2014, p. 360-362.
- ^ a b c d 岡村秀典 1999, p. 134-139.
- ^ a b c d 上野祥史 2014, p. 355-357.
- ^ a b c 下垣仁志 2018, p. 104-107.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 105-106.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 93-94.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 116-118.
- ^ 岡村秀典 1999, p. 156-161.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 142-145.
- ^ 下垣仁志 2018, p. 108-112.
- ^ 辻田淳一郎 2019, p. 146-148.
- >> 「漢鏡」を含む用語の索引
- 漢鏡のページへのリンク