社会構造と大陸との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 14:20 UTC 版)
このような漢鏡の分布を踏まえて、北部九州が他の地域集団に対して政治的に優位にあったか否かが問題となる。この点について辻田は、北部九州に傑出した漢鏡がみられるものの、他地域との面径や面数などの序列化、あるいは同型鏡の贈与などが見られないとし、「北九州の権力者は楽浪郡側からは代表者と見られていたが、日本国内では同列的な地域関係とする二重構造」があったと推測している。こうした状況から辻田は、漢鏡の日本への流入について、北部九州を仲介して他地域に流通したとする説と、北部九州の海人集団を水先案内人として各地域の代表者が使節団を組んで楽浪郡と交流したとする説の、二つの可能性があるとしている。 中国側から日本はどのように見られていたかという点も問題となる。上野祥史は、日本への漢鏡の流入は漢王朝の倭に対する評価を反映すると指摘した上で、漢鏡3期で大型鏡を得るなど前漢王朝では厚遇を受けたが、王莽が実権を握り外夷を冷遇したことで漢鏡4期では大型鏡が少なくなったとしている。また、後漢における倭の評価が回復して漢鏡5期では大型鏡もみられるが、後漢では2世紀前後から銅鏡よりも上位に置かれた鉄鏡の流入が著しく少ない事から、その評価が推し量れるとしている。一方で東アジアでは内行花文鏡が重要視されていたと考えられ、平原遺跡から出土した超大型鏡を含めて多くが出土していることから、その待遇は低くないと考える説もある。
※この「社会構造と大陸との関係」の解説は、「漢鏡」の解説の一部です。
「社会構造と大陸との関係」を含む「漢鏡」の記事については、「漢鏡」の概要を参照ください。
- 社会構造と大陸との関係のページへのリンク