社会構築主義・社会的実在主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:19 UTC 版)
「数学の哲学」の記事における「社会構築主義・社会的実在主義」の解説
社会構築主義や社会的実在論の理論では、数学をなによりまず社会的構築物として見る。つまり、文化によって変化や変更が行われる生産物と見る。自然科学の他の部門と同じく、数学もまたひとつの経験的試みであり、その成果は絶えず検証され、場合によっては放棄されるかもしれないとされる。とはいえ、経験主義的には検証とは「現実」とある種の比較を行うことであるのに対して、社会構築主義が強調するのは、社会集団における研究上の流行や研究に資金供給する社会の必要に応じて数学研究の方針が決定されるこということである。ただし、こうした外部的な力によってある種の数学研究が変えられてしまうということがあるにせよ、数学的な伝統、方法、問題、意味や価値といった数学者たちが文化適応しているさまざまな内的制約もまた、数学という歴史的に決定された学問分野を保持していく上で、強力に働いている。 以上の考え方は、現場の数学者たちが従来感じてきた、数学とはいずれにせよ純粋ないし客観的なものであるという信念とは相容れない。しかし、社会構築主義の立場からすれば、数学の基礎には実際にはかなり不確実なものがある。数学的実践 (mathematical practice) が変化すると、かつての数学の地位に疑問が投げかけられ、現在の数学者たちの共同体によって要求ないし要望される水準に変更される。解析学の発達がライプニッツやニュートンの微積分法の再検討から生まれたとき、こういう変化が起こったと言える。社会構築主義の立場からは、さらに、完成された数学が大きすぎる地位を与えられていることが多いのに対して、まだしっかりとした証明をされていないいわゆるフォーク数学 (folk mathematics) の方は、公理的証明や数学的実践におけるピア・レビューに重きを置きすぎているせいで、十分に評価されない。しかしそれでは、厳密に証明された成果が強調されすぎていると言っているだけに思えるかもしれない。残りはすべて混乱して不確実だ、というわけである。 数学が社会的なものであるということが最も明白なのは、数学のサブカルチャーに当たる分野である。主要な発見がある数学部門で行われ、他の数学部門にも関連しているということがありうる。それでも、数学者たちの間に社会的繋がりがなければ、関係は発見されないままになる。社会構築主義の立場からは、それぞれの部門はそれぞれ認識共同体 (epistemic community) を形成しており、コミュニケーションをしたり数学の様々な分野を横断する統一理論 (unifying theories) を研究しようと考えたりするのは大変難しいと言える。社会構築主義の立場からは「数学をする」というプロセスは現実に意味を作りだすことなのである。他方、社会実在論の立場からは、人間の抽象化能力や人間の認知バイアスや数学者たちの集団的知性の不足によって、数学的対象という実在世界の理解が妨げられているとされる。社会構築主義では、数学の基礎の探求は失敗せざるを得ないし、無駄かつ無意味であるとして拒絶されることもある。社会科学者によっては、人種差別やエスノセントリズムの影響を受けているとする説もある。これらの考え方の中にはポストモダニズムに近いものもある。 社会構築主義への寄与はイムレ・ラカトシュやトマス・ティモチコ (Thomas Tymoczko) によって行われてきたが、両者を社会構築主義者と呼んでよいかは異論もある。もっと最近ではポール・エルネストが社会構築主義的な数学の哲学を明白に定式化している。ポール・エルデシュの仕事が全体として社会構築主義を進歩させたと考える者もいる(ただし本人は社会構築主義を否定している)。エルデシュ数などを通じて、「数学が社会的活動である」ということの研究へと人々を促したという点で、エルデシュの広範な寄与は唯一無二のものだからである。ルーベン・ハーシュもまた社会的な数学観を奨励し、それを「人文主義的」(humanistic) アプローチと呼んだ。これはアルヴィン・ホワイトのアプローチに似ているが、細部は異なる。ハーシュと共著を記したフィリップ・J・デイヴィスもまた社会構築主義的な数学観に賛同していることを表明している。 社会構築主義アプローチへの批判は、それが些事にばかり執着し、数学が人間の営みであるという当たり前の説を基礎にしているということである。厳密でない推測や実験や考察をしてからでなければ厳密な証明はできないという指摘は正しいが、それは自明のことであって、誰も否定しようとはしない。だとすれば、そんな仕方で、陳腐な真実に基づいて数学の哲学を特徴づけるのは筋違いというものである。カール・ワイエルシュトラスのような数学者たちが諸定理を一から証明しようとしたとき、ライプニッツやニュートンの微積分法が再検討された。そこには一切特別なことも興味深いこともない。それはもっと一般的な、厳密でないものの考え方のトレンドと合致しているからであり、こうした考え方が後になって厳密化される。数学研究の対象と、数学研究の対象の研究とを明確に区別すべきである。おそらく前者は大幅に変化しない。後者は絶えず変動している。社会理論が論じるのは後者であり、プラトニズム等が論じるのは前者である。 しかし、社会構築主義的な立場の支持者からはこういう批判は門前払いされている。なぜならそうした批判は、数学の対象そのものが社会的構築物であることに気づいていないからである。社会構築主義によれば、こうした対象はなによりまず、人間の文化の領域に存在する記号学的な対象なのであり、(ウィトゲンシュタイン的に言えば)物理的形態を与えられた記号を用いて個体内に(心的な)構築物を生じさせるという社会的実践によって維持される。社会構築主義が考察しているのは、人間の文化の領域がプラトニズムの王国やその他の物理世界を超えた天国的な存在領域に物化されるということなのであり、それは長らく慣習的に続いてきたカテゴリー錯誤なのである。
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