邪馬台国までの国と行程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:09 UTC 版)
「魏志倭人伝」の記事における「邪馬台国までの国と行程」の解説
官名等には諸説がある。 魏志倭人伝の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。「新訂 魏志倭人伝」には当時の倭国各国の推定位置も記されているが、ここでは大部分を省いた。 原文日本語訳倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。 倭人は帯方(今の韓国ソウル付近)の東南大海の中に住み、山島に依って国邑をつくる。もとは百余国。漢のときに朝見(参内して天子に拝謁)する者があり、いま使者と通訳を接触させているのは三十国。 從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 郡(帯方郡)から倭に到達するには、海岸に従って水行し、韓国(馬韓)を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、その(=倭国の)北岸の狗邪韓国(くやかんこく。伽耶・加羅・金海)に到達する。(帯方郡から隔たること)七千余里。 始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。 始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に着く。その大官を卑狗(ひこ。彦か)と言い、副官を卑奴母離(ひなもり。夷守・火守か)と言う。居るところは絶遠の島で、四方は四百余里ばかりか。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径(みち)のようだ。千余戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどする。 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。 また南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。一大国(一支・壱岐)に着く。官をまた卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。四方は三百里ばかりか。竹林・叢林が多く、三千あまりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるには足らず、また南北に行き、米を買うなどする。 又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。 また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に着く。四千余戸ある。山と海の間の海岸に居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。 東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。 東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に着く。官を爾支(にき。稲置・県主か)といい、副官を泄謨觚(せもこ。島子・妹子か)・柄渠觚(へくこ。彦子・日桙か)と言う。千余戸ある。世に王がいた、みなは女王国に統属していた。(帯方)郡の使者が往来し、常駐する場所である。 東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。 東南の奴国(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里。官を兕馬觚(しまこ。島子か)と言い、副官を卑奴母離と言う。二万余戸ある。 東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。 東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里。官を多模(たま。玉・魂・玉造か)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。 南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。 南へ投馬国に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ。耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。耳成・耳垂か)と言う。五万余戸ばかりか。 南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。 南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王の都する所へは水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。七万余戸ばかりか。
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