邪馬台国のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:41 UTC 版)
3世紀半ばの壹與の朝貢を最後にして、5世紀の義熙9年(413年)倭の五王(雄略天皇などヤマト王権の五天皇)の朝貢まで150年近く中国史書に倭、ないしは倭国に関する記録はない。この時期に、朝鮮半島の魏(または西晋)の植民地帯方郡の政情が不安定になり、のちに百済や高句麗に圧されて滅びたことの影響が考えられる。壹與以後に邪馬台国連合が衰えて中国に朝貢する国力も無くなったためであろう。あるいは、単に、東晋及び南朝諸国が南方に逼塞したため、地理事情の問題で容易に到達できなくなったためとも思われる。いずれにしろ、このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。 邪馬台国連合とヤマト王権との関係については諸説あるが、若井敏明は「邪馬台国の滅亡 吉川弘文館2010年出版」で、邪馬台国連合は九州北部にあり近畿のヤマト王権との関係は無かったとした。しかし西暦366年頃のヤマト王権の仲哀天皇・神功皇后の九州遠征により邪馬台国末裔は最終的に滅亡したとしている。
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