邪馬台国と狗奴国の抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 13:49 UTC 版)
「ヤマト王権」の記事における「邪馬台国と狗奴国の抗争」の解説
倭では、邪馬台国と狗奴国の抗争がおこり、247年(正始8年)には両国の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政が、檄文をもって女王を諭した、としている。また『魏志』倭人伝によれば、卑弥呼の死ののちは男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女壱与(壹與、後代の史書では台与(臺與))が王となって再び治まったことが記されている。『日本書紀』の神功皇后紀に引用されている『晋起居注』(現存しない)には、266年(泰初(「泰始」の誤り)2年)、倭の女王の使者が西晋の都洛陽に赴いて朝貢したとの記述があり、この女王は台与と考えられている。したがって、『日本書紀』としては台与の行動は神功皇后の事績と想定している可能性がある。なお現存する『晋書』四夷伝と武帝紀では266年の倭人の朝貢は書かれているが、女王という記述は無い。 尚、狗奴国の所在地については邪馬台国の南方にある。『魏志』では邪馬台国の東には海を渡ること千余里にてまた倭種の国があり、邪馬台国の西方には会稽がある。邪馬台国の北西には帯方郡、北方には伊都国があると記述されている。
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