邪馬台国に関する論争とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 邪馬台国に関する論争の意味・解説 

邪馬台国に関する論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 02:42 UTC 版)

邪馬台国」の記事における「邪馬台国に関する論争」の解説

日本における邪馬台国への言及は、『日本書紀』第九神功皇后摂政三九年、四十年および四十三年の注に「魏志」から引用 があり、神功皇后卑弥呼同一人物見なし記述となっていることが嚆矢である。。なお、一般に魏志倭人伝」の名称で知られるのは『三国志』魏書第三烏丸鮮卑東夷伝一部分で(参照Wikisource)、以降書かれ中国の正史もしくはそれ以外史書にも、この「魏志」に由来する思われる記事少なくない三十九年。是年也大歲己未魏志云。明帝景初三年六月。倭女王大夫斗米等。詣郡求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。四十年。魏志云。正始元年。遣建忠校尉携等。奉詔書印綬。詣倭國也。 四十三年魏志云。正始四年。倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。 —国史大系. 第1巻 日本書紀 p.172(国立国会図書館史料によって漢字表記が不安定である上に、「やまたいこく」と読むべきか否か統一的な理解はなく、その場所や大和朝廷との関係についても長期的な論争続いている。 古く邪馬台国大和音訳として受け容れられていたとの説があり、であれば、この論争始まったのは江戸時代中期ないしは後期となる。新井白石は「古史通或問」において、奈良存在する大和国説を説いたが、後に著した外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いたその後国学者本居宣長は「卑弥呼神功皇后邪馬台国大和国」としながらも「日本の天皇中国朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、九州熊襲による偽僭説を提唱した大和朝廷邪馬台国)とはまったく別でつながることはな王国想定し筑紫九州にあった小国神功皇后卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。これ以来政治的意図ナショナリズム絡めながら、学界はもちろん在野研究者巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述信頼性天皇制起源影響するのである漢委奴国王印とともに一般にもよく知られ古代史論争である。

※この「邪馬台国に関する論争」の解説は、「邪馬台国」の解説の一部です。
「邪馬台国に関する論争」を含む「邪馬台国」の記事については、「邪馬台国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「邪馬台国に関する論争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「邪馬台国に関する論争」の関連用語

邪馬台国に関する論争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



邪馬台国に関する論争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの邪馬台国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS