邪馬台国に関する論争
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日本における邪馬台国への言及は、『日本書紀』卷第九神功皇后摂政三九年、四十年および四十三年の注に「魏志」から引用 があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述となっていることが嚆矢である。。なお、一般に「魏志倭人伝」の名称で知られるのは『三国志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷伝の一部分で(参照→Wikisource)、以降に書かれた中国の正史もしくはそれ以外の史書にも、この「魏志」に由来すると思われる記事が少なくない。 三十九年。是年也大歲己未。魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。四十年。魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等。奉詔書印綬。詣倭國也。 四十三年。魏志云。正始四年。倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。 —国史大系. 第1巻 日本書紀 p.172(国立国会図書館) 史料によって漢字表記が不安定である上に、「やまたいこく」と読むべきか否かも統一的な理解はなく、その場所や大和朝廷との関係についても長期的な論争が続いている。 古くは邪馬台国は大和の音訳として受け容れられていたとの説があり、であれば、この論争が始まったのは江戸時代中期ないしは後期となる。新井白石は「古史通或問」において、奈良に存在する大和国説を説いたが、後に著した「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、国学者の本居宣長は「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、九州の熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。これ以来、政治的意図やナショナリズムを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述の信頼性や天皇制の起源に影響するものである。漢委奴国王印とともに、一般にもよく知られた古代史論争である。
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