『晋書』四夷伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 07:29 UTC 版)
肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行.東濱大海,西接寇漫汗國,北極弱水.其土界廣袤數千里,居深山窮谷,其路險阻,車馬不通.夏則巣居,冬則穴處.父子世為君長.無文墨,以言語為約.有馬不乘,但以為財産而已.無牛羊,多畜豬,食其肉,衣其皮,績毛以為布.有樹名雒常,若中國有聖帝代立,則其木生皮可衣.無井竈,作瓦鬲,受四五升以食.坐則箕踞,以足挾肉而啖之,得凍肉,坐其上令暖.土無鹽鐵,燒木作灰,灌取汁而食之.俗皆編髮,以布作襜,徑尺餘,以蔽前後.將嫁娶,男以毛羽插女頭,女和則持歸,然後致禮娉之.婦貞而女淫,貴壯而賤老,死者其日即葬之於野,交木作小槨,殺豬積其上,以為死者之糧.性凶悍,以無憂哀相尚.父母死,男子不哭泣,哭者謂之不壯.相盜竊,無多少皆殺之,故雖野處而不相犯.有石砮,皮骨之甲,檀弓三尺五寸,楛矢長尺有咫.其國東北有山出石,其利入鐵,將取之,必先祈神. 周武王時,獻其楛矢、石砮.逮於周公輔成王,復遣使入賀.爾後千餘年,雖秦漢之盛,莫之致也.及文帝作相,魏景元末,來貢楛矢、石砮、弓甲、貂皮之屬.魏帝詔歸於相府,賜其王傉雞、錦罽、綿帛.至武帝元康初,復來貢獻.元帝中興,又詣江左貢其石砮.至成帝時,通貢於石季龍,四年方達.季龍問之,答曰「毎候牛馬向西南眠者三年矣,是知有大國所在,故來」云. 粛慎氏は一名を挹婁(ゆうろう)といい、不咸山(白頭山)の北に在り、夫余から60日ばかりの行程である。東は大海(日本海)に沿い、西は寇漫汗国に接し、北は弱水(アムール川)にまで達している。その領域は東西・南北ともに数千里におよび、人々は奥深い山や谷に住んでいる。その路は険阻であり、車馬は通わない。夏の間は樹の上に住み、冬の間は地下の穴の中で生活する。父子が代々君長となる。文字はなく、口頭でもって約束ごとをおこなった。馬がいるが乗らず、ただ財産とするだけである。牛や羊はいないが、多くの豬(ブタ)を飼っており、その肉を食べ、その皮を衣とする。毛を紡いで布とする。樹の名前に雒常(らくじょう)というものがあり、中国の聖帝が新たに帝位につく時には、その木は皮を生じるので衣とすることができた。井戸や竈(かまど)はなく、瓦鬲(がれき:土釜)を作り、それに4・5升を盛って食べる。座り方は両足を伸ばして座り、足をもって肉をつかんで食べ、凍った肉を得れば、その上に座って暖める。その地には塩や鉄がなく、木を焼いて灰を作り、水を注いで汁を取り、それを食した。人々はみな髪を編み、布で襜(せん:まえだれ)を作った。その大きさは径一尺あまりであり、それで身体の前後を蔽った。結婚しようとする時には、男が女の頭に毛羽を挿し、女が結婚を承諾すれば毛羽を家に持ち帰り、然る後に礼をつくして女を娶る。婦人は貞淑であるが、女はほしいままにふるまう。人々は壮者を貴び、老人を賤しむ。死者はその日のうちに野に葬られ、木を組み合わせて小さな槨(かく:ひつぎ)をつくり、豬を殺してその上に積み、死者の糧とする。性格はあらあらしく、憂い哀しまないことをもって互いに尚んだ。父母が死んでも男子は泣き叫んだりしない。泣き叫ぶような者は壮者とは言わない。盗竊した者はその多少にかかわらず皆これを殺すので、あたりに放り出していても盗む者はいない。武器は石砮・皮骨の甲、3尺5寸の檀弓、長さ1尺数咫の楛矢がある。その国の東北には石を産出する山があり、その石の鋭利さは鉄をも凌ぐほどである。これを採取するときには必ずその前に神に祈るのである。 周の武王の時、その楛矢,石砮を献上した。周公旦が成王を補佐すると、ふたたび使者を遣わして入賀した。それから千余年、秦・漢が盛んになると、使者を送って朝貢することはなかった。文帝(司馬昭)が魏の丞相となった頃、魏の景元(260年 - 264年)の末に粛慎氏が来貢して楛矢・石砮・弓甲・貂皮などを献上した。魏帝(曹奐)は詔して献上物を相府に贈り、粛慎氏の王には傉鶏(じょくけい)・錦罽(きんけい)・綿帛(めんばく)を与えた。晋の武帝(在位:265年 - 289年)の太康(280年 - 289年)の初めに至り、ふたたび来朝して献上した。元帝(在位:317年 - 322年)が晋朝を中興すると、また江左(江東すなわち建康)に詣でてその石砮を献上した。成帝(在位:325年 - 342年)の時に至り、後趙の石季龍に朝貢するようになり、4年で到達できた。季龍はこれを問い、粛慎の使者が答えて言った「たえず牛馬の様子を見ていましたところ、西南に向かって眠ることが3年続きました。これによって大国(後趙)の所在を知ることができましたので、やって参りました」と。 ※『晋書』四夷伝の記述は挹婁時代のものである。 発掘調査でも史書の記述を裏付ける竪穴式の住居が確認されているが、これは防寒と保温を目的として地中に坑を掘る形態になったと考えられる。また石鏃や鉄鏃も発掘されているが、これも鋭利に加工され血抜きの溝が刻まれるなど史書の記述とよく合致する。
※この「『晋書』四夷伝」の解説は、「粛慎 (中国)」の解説の一部です。
「『晋書』四夷伝」を含む「粛慎 (中国)」の記事については、「粛慎 (中国)」の概要を参照ください。
- 『晋書』四夷伝のページへのリンク