『晋書』との食い違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 03:03 UTC 版)
『晋書』においては、拓跋什翼犍は拓跋寔君に殺されたのではなく、拓跋翼圭(拓跋珪の別名、『晋書』では拓跋什翼犍の息子とされている)に捕らえられ、前秦へ降伏するための手土産とされたと記されている。拓跋翼圭は父を縛った不孝者であるとして蜀に流されたが、拓跋什翼犍はその後も前秦に仕えたとされている。彼の没年については記されていないが、以下のような逸話が載せられている。 苻堅は、拓跋什翼犍が荒俗であり、仁義を理解していなかったので、太学で勉強させた。ある時、苻堅は太学に赴き、拓跋什翼犍を召しだすと、「中華は学問によって健康を保持し、人民は長寿を得ている。漠北では牛羊ばかり食しているから、人民は短命なのかね」と問うたが、拓跋什翼犍は答えなかった。そこで、今度は「卿の部族にはの将の任に耐えることができる強者が多い。そこで、召し出して国家のために用いようと思うのだが、卿はどう思う」と尋ねると、拓跋什翼犍は「漠北の人民が、家畜を抑えたり、走ることに長けているのは、食糧を得るためであります。どうして将たり得ましょうか」と答えた。苻堅は最後に「学問は好きかね。」と尋ねると、拓跋什翼犍は「好きでなければ、陛下は、この翼に学問を学ばせて、何の役に立たせようと言うのですか?」と答えた。苻堅はこの回答に、学問の成果が出ていると満足した。 『宋書』では、苻堅に敗れて捕らえられ、そのまま長安に留め置かれ、後に北に帰ろうとしたところを殺されたと記されている。
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