十国
十国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 21:15 UTC 版)
十国の中で最も強大なのは、中国でも最も豊かな地帯に拠った呉であった。建国者の楊行密は群盗から身を興して、揚州一帯を制圧、一時は北の後梁と互角に争い合う程の勢力を誇った。しかし呉では楊行密の死後は配下の徐温の力が大きくなり、最終的に徐温の養子の徐知誥によって簒奪される(937年)。徐知誥は簒奪後に名前を変えて李昪と名乗り、唐の後継者を自称して国号を「唐」とした。後世の歴史家からは南唐と呼ばれる。 同時期に南の浙江では、呉越が勢力を張った。建国者の銭鏐(せんりゅう)は塩徒(塩の密売人)から身を興し、浙江一帯を制圧した。北に強大な呉・南唐と対峙していたので、常に北の五代諸国に対して臣従することで、呉・南唐に対抗していた。 呉越の南の福建では、威武軍節度使の王審知がこの地を制圧して閩を建てていた。王審知は内政に努め、福建の生産力を飛躍的に向上させた。しかし王審知の死後は内紛が起こり、そこに付け込んだ南唐によって945年に滅ぼされる。 西に目を向けると湖北には荊南(南平)、湖南には楚、広東には南漢が割拠していた。荊南は十国の中でも最小の国で、周辺諸国全てに対して臣従して交易の中継点として栄えた。楚は茶の貿易で栄えた国で、建国者の馬殷の在世時には経済的に大いに奮ったが、死後の内紛に付け込まれ、951年に南唐によって滅ぼされた。南漢の統治者の劉隠はアラブ系と言われており、その宮廷では戦乱の五代十国では珍しく文官の力が強かった。しかし後期にはその政治も堕落し、宦官政治へと変質した。 四川は揚州と並んで豊かな土地であり、「天府」と称されていた。ここに割拠したのが前蜀・後蜀の両蜀政権である。前蜀の建国者の王建は元は塩徒だったが、四川に入ってここを制圧し、当地の豊かな物産を元に文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は925年、後唐によって滅ぼされる。その後、この地の統治を任された武将の孟知祥が自立して934年に後蜀を建てた。後蜀は前蜀と同じく文化振興に力を入れ、特に唐末期からの詞を集めた『花間集』の編纂はこの時代の文化を伝える上で大きく貢献した。 中原の五代王朝は旧唐王朝の版図の6割を押さえていたが、国内情勢の不安定さに加えて契丹などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安定な勢力の均衡が保たれていた。だが、五代最後の後周が荊南・南唐領の侵食を始めると、その均衡は一気に崩壊することになる。 北漢 劉崇によって建てられた北漢は中原を支配することができなかったため、五代ではなく十国のひとつに数えられる。太原を首都とし、現在の山西省北部を支配した。北漢は国力が少なかったために後周に対抗するために遼の援助を求め、事実上は遼の衛星国家となった。遼の兵力によって後周に対して有位を保ったこともあるがそれは一時的なものにとどまった。後周の後を継いで北宋が成立すると、北宋の圧力によって国内は混乱し、979年にはついに北宋に屈して北漢は滅びた。
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