久世・笠岡代官時代とは? わかりやすく解説

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久世・笠岡代官時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 02:26 UTC 版)

早川正紀」の記事における「久世・笠岡代官時代」の解説

1787年天明7年)、正紀49歳時に前任守屋三左衛門に代わって美作国久世岡山県真庭市)の代官となり、大庭郡41、西々條郡33阿賀郡13哲多郡12と実に、2国4郡99治めた当時久世代官所は、重願寺近くにあった。現在、重願寺山門代官所門を移築したものとされている。 赴任当初前任より放置されていた庶民からの訴訟書類驚嘆したという。管内農村親しく巡回して現状民意把握努め赤子間引き禁止質素倹約奨励教育奨励風紀改善地域産業となる虎斑竹保存など行なった尾花沢時代経験した飢饉を受け、年貢収取方法を「定免方式」から「検見方式」へ変えたことも大きい。代官通りがかった際の庶民による土下座禁止している。 1788年天明8年)には、もともと蓑笠之助石見国大森代官兼任)と2人務めていた備中国笠岡代官岡山県笠岡市)を、正紀ひとりが務めることになる。これにより、久世笠岡兼務となったまた、備中倉敷代官半年ほど務めている。 前任代官任期期間が、およそ2年だったのに対し、正紀は14年務めている。その間吉岡銅山再興弁柄生産保護奥津温泉再興社殿再建山間交通安全にするため十茶屋設け消防自警冠婚葬祭制度整え庶民に対して善行表彰積極的に行なった褒状褒詞謁見金品の賜興、苗字帯刀薦めた寛政日本三名代官とも称されている。ちなみに、他の2名は岡田寒泉竹垣直温である。 庶民慕われていた正紀は、異動とならないよう、庶民によって4回にもわたり歎願書が出されている。 1回目1795年寛政7年)に大庭・西々條郡惣代連署出され久世陣屋存続歎願2回目1798年寛政10年)に美作5郡99村惣代連署出され早川代官留任歎願3回目1801年享和元年)に美作5郡135村惣代連署出され早川代官留任歎願4回目同年に西々條郡3か村惣代連署出され早川代官留任歎願書。 正紀が久世あとにする際、見送る人たちは列をなし、500名以上が15キロ先まで続いたと言う。 正紀は1801年享和元年)、63歳までの14年間を岡山の地で過ごした。しかしその前年1800年寛政12年)に妻を病気亡くしている。

※この「久世・笠岡代官時代」の解説は、「早川正紀」の解説の一部です。
「久世・笠岡代官時代」を含む「早川正紀」の記事については、「早川正紀」の概要を参照ください。

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