久世・笠岡代官時代
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1787年(天明7年)、正紀49歳の時に、前任の守屋彌三左衛門に代わって美作国久世(岡山県真庭市)の代官となり、大庭郡41ヶ村、西々條郡33ヶ村、阿賀郡13ヶ村、哲多郡12ヶ村と実に、2国4郡99ヶ村を治めた。当時の久世代官所は、重願寺の近くにあった。現在、重願寺の山門が代官所門を移築したものとされている。 赴任当初、前任より放置されていた庶民からの訴訟書類に驚嘆したという。管内農村を親しく巡回して、村の現状や民意の把握に努め、赤子間引きの禁止、質素倹約の奨励、教育の奨励、風紀の改善、地域産業となる虎斑竹の保存などを行なった。尾花沢時代に経験した飢饉を受け、年貢の収取方法を「定免方式」から「検見方式」へ変えたことも大きい。代官が通りがかった際の庶民による土下座も禁止している。 1788年(天明8年)には、もともと蓑笠之助(石見国大森代官の兼任)と2人で務めていた備中国笠岡代官(岡山県笠岡市)を、正紀ひとりが務めることになる。これにより、久世と笠岡の兼務となった。また、備中倉敷代官も半年ほど務めている。 前任代官の任期期間が、およそ2年だったのに対し、正紀は14年も務めている。その間、吉岡銅山の再興・弁柄生産の保護、奥津温泉の再興、社殿の再建、山間の交通を安全にするため十國茶屋を設け、消防・自警・冠婚葬祭の制度を整え、庶民に対して善行表彰を積極的に行なった。褒状、褒詞、謁見、金品の賜興、苗字帯刀を薦めた。寛政の日本三名代官とも称されている。ちなみに、他の2名は岡田寒泉、竹垣直温である。 庶民に慕われていた正紀は、異動とならないよう、庶民によって4回にもわたり歎願書が出されている。 1回目は1795年(寛政7年)に大庭・西々條郡惣代連署で出された久世陣屋存続歎願書 2回目は1798年(寛政10年)に美作5郡99か村惣代連署で出された早川代官留任歎願書 3回目は1801年(享和元年)に美作5郡135か村惣代連署で出された早川代官留任歎願書 4回目は同年に西々條郡3か村惣代連署で出された早川代官留任歎願書。 正紀が久世をあとにする際、見送る人たちは列をなし、500名以上が15キロ先まで続いた、と言う。 正紀は1801年(享和元年)、63歳までの14年間を岡山の地で過ごした。しかしその前年、1800年(寛政12年)に妻を病気で亡くしている。
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