久世広正の主張
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このようなタイミングで第一回唐物抜荷事件が発覚する。天保6年10月19日(1835年12月9日)、漢方薬種等の抜荷を積み込んで新潟港に向かっていた薩摩船が難破し、難破後に売りさばかれた抜荷品から足がついて摘発され、抜荷品の売買や仲介を行った約50名が処罰された。 事件発覚後、幕府の姿勢は硬化する。久世広正は天保7年(1836年)4月、以下のような内容の言上書を提出する。 前年(天保6年)10月、新潟で難破した薩州船が抜荷品である漢方薬種等を積み込んでいたとの報告が上がってきている。これは文政8年(1825年)の中国人商人たちの異議申し立て、そして昨今の風説書の内容と合致するものであり、薩摩藩の抜荷取り締まりには明らかに問題がある。 薩摩藩の長崎商法は困窮状態の琉球を援助するという名目で行われているが、このような唐物売りさばきの道をそのままにしておけば、抜荷取り締まりの手立てが講じ難い。また長崎会所で扱う俵物の量が減少し、価格も高騰している。その一方で大量の俵物が琉球から流出して中国国内での価格が下落しており、その結果として中国人商人が長崎に持ち寄る品々の品質が落ちている。 取り扱い16品は会所による貿易品と同様の品物である上に品質も良いため、薩摩藩の長崎商法が繁盛し、本道であるべき会所貿易は衰微しており、資金繰りも困難になっていてこのままでは立ち直るきっかけを掴むことは出来ないであろう。 他国である琉球の援助のために、自国の長崎は苦しめられていて、今現在、長崎会所の上納金は停止となり、貿易用の銅、俵物等の代金決済もままならず、幕府からの御下金も焼け石に水であった。 このような状況は当然、長崎会所の役人らも承知しているにも関わらず、薩摩藩からの「仕向方格別に手厚い」ため、「それぞれ己の利欲を貪り」、「何とも差し障り申し立て」することも無い。 しかも長崎で貿易に従事する商人たちの中には、会所の入札よりも薩摩藩の長崎商法の入札を重視する者たちも居る。 と、薩摩藩の長崎商法と抜荷が長崎会所による貿易を著しく圧迫していること、そして薩摩藩側と長崎会所の役人らが癒着していることを指摘した上で、20年の延長が認められた薩摩藩の長崎商法であるが、差し止めをするしか無いと主張した。 薩摩藩の長崎商法に対する会所のチェック機能は甘く、品目についての検査は行われていても量については検査が行き届かなかったと考えられている。しかも薩摩藩からの「仕向方格別に手厚い」状況では違反も黙認された可能性が高い。文政8年(1825年)以降、年額銀1720貫目の制限額越えが常態化していたと考えられる。 なお、久世の薩摩藩の長崎商法差し止め論には、薩摩藩による貿易行為や抜荷によって幕府の長崎貿易が衰退することは、「外国に対して国体に関わる問題」であるとの主張もあった。つまり幕府が外国貿易をきちんと統制できないことは国家としての体面に関わる問題であり、幕府の権威低下、そして支配力の低下に繋がっていくと判断したのである。
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