邪馬台国四国説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 02:42 UTC 版)
1970年代後半より注目され始めた新しい説。邪馬台国までの行き方(道順)を表しているとされる古代中国魏志倭人伝の(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の解釈として、まず大陸から渡り着いたとされる九州北部から水路で豊後水道を南下、高知県西部より四国へ上陸、その後は畿内説と同じく南を東と読みかえて陸路で徳島県に辿り着くとの見解が示される事も多い。 近年では数多くの書籍・メディアなどで紹介されているが当初は郷土史家の郡昇が四国説を唱え著書を自費出版で行った。その後、古代阿波研究会なども四国説を主張し、『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』には多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓らが編集委員として名を連ねている。日本テレビの番組 で、番組プロデューサーの山中康男はその後『高天原は阿波だった』(講談社)を出版した。1980年代にはNHK高知放送局が制作した「古神・巨石群の謎」の中で邪馬台国=土佐(四国山頂)説を主張する土佐文雄が著書『古神・巨石群の謎』(リヨン社)を出版。他にも浜田秀雄や大杉博、林博章などが四国説を主張する著書を出版、2009年にはテレビ東京の『新説!?みのもんたの日本ミステリー!失われた真実に迫る』で四国徳島説が放送された。 日本神話では我が国は淡路島の次に四国が誕生したとされることで、四国説は我が国の国産み神話に基づくものだとされる。また朝廷は徳島(四国地方)から始まり奈良へ移行されたとされる四国説・近畿説を共に主張する声もある。 作家・榊正志は下記のことを根拠に、小説『アマテラス・サーガ』の中で邪馬台国四国説を展開している。 『古事記』『日本書紀』の国産みの段においてイザナギとイザナミが天浮橋に立ち天沼矛で海をかき回し、オノゴロ島を作った際、潮が重なって島となったが、ここで天浮橋を鳴門海峡両岸の地形、天沼矛で海をかき回したことを鳴門の渦潮、オノゴロ島を沼島と比定すれば記述と一致すること。また同地で古くから製塩業が盛んであり、鳴門海峡とオノゴロ島が距離的に極めて近いこと。 『古事記』『日本書紀』に現れるオノゴロ島がしばしば徳島から近い淡路島南の沼島として比定されることが多く、沼島南部に存在する上立神岩が天の御柱の描写に酷似すること。 『古事記』において、神産みの段において阿波、讃岐、伊予以外の神名には別(わけ)が付き、これら三国以外の神がある種の皇別で産まれたのではないかと考えられること。 近年、淡路島北淡町で弥生時代後期の我が国最大級の鉄器生産拠点の遺跡(五斗長垣内遺跡)が発見されていること。 国産みにおいてオノゴロ島、淡路島に次いで伊予之二名島(四国)が産まれたこと。 徳島県阿南市において国内最大の辰砂(水銀朱)鉱山遺跡(若杉山遺跡)が発見されていること。辰砂は前方後円墳石室装飾において最も重宝された。(その山に丹あり『魏志倭人伝』) その近くにある加茂宮ノ前遺跡が国内最古級の鉄器の生産を行った鍛冶炉が複数確認される。 徳島県鳴門市大麻町にある萩原第二古墳他(萩原墳墓群)は、奈良最古の前方後円墳(ホケノ山古墳など)よりも前に築造された前期前方後円墳であること。 イザナギの禊ぎの後、三貴子が誕生し左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオが産まれるが、これは縄文海進の後期における吉野川河口(左目)、紀の川河口(右目)、淡路島(鼻)に符合する。アマテラスは高天原を治め、吉野川南岸には眉のように見える山(眉山)が存在する。 天皇陛下の即位の大礼(践祚大嘗祭)では必ず木屋平(徳島県)で栽培されたものが献上され、使用される。 アメノオシホミミが見下ろす豐葦原之千秋長五百秋之水穗國(葦原中国)は東西:南北=2:1 である善入寺島である可能性があり、高所から見ると神武記の記述「蜻蛉のマグアヒ(トンボのトナメ)」の形に見えること。
※この「邪馬台国四国説」の解説は、「邪馬台国」の解説の一部です。
「邪馬台国四国説」を含む「邪馬台国」の記事については、「邪馬台国」の概要を参照ください。
- 邪馬台国四国説のページへのリンク