邪馬台国畿内説の基本論拠
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「邪馬台国畿内説」の記事における「邪馬台国畿内説の基本論拠」の解説
邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの複数の説が存在する。この中では、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が有力とされている。邪馬台国畿内説では、「畿内には最大級の都市遺跡がある。魏に朝貢した邪馬台国はその当時の日本列島最大勢力であったはず」という仮定に基づいている。 纏向遺跡は当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡であり、一種の都市遺跡である。 年代調査の成果により、倭人伝の時代(卑弥呼247年頃(3世紀半ば)没)と遺跡の時代(始期は2世紀後半(180年)〜3世紀前半(210年)頃。最盛期は3世紀終わり頃〜4世紀初め)が概ね合致していると考える。 吉備、阿讃(東四国瀬戸内側)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が卑弥呼の没年近くに作られはじめ(箸墓古墳)、大和を中心に分布し、時代が下るにつれて全国に広がっていったこと。 3世紀後半には北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。 卑弥呼の遣使との関係を窺わせる景初三年、正始元年銘を持つものもある三角縁神獣鏡が畿内を中心に分布していること。 弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち魏の年号を記した10枚は235年〜244年の間に収まって銘されており、そのうちの5枚が畿内に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる勢力であったことを物語ると考える。 『日本書紀』神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を神功皇后に結び付けているように読める。 『隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。 近畿は南に無いが、現存する「魏志」はすべて宋時代の刊行本を元としているので、それ以前の写本の中に、南を東と記載したものがある可能性。 畿内が卑弥呼の没後である3世紀後半から国内最大規模の勢力として存在していたことは疑いようがない。 逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。 魏に朝貢したからと言って、邪馬台国が日本列島最大勢力であったとは限らないこと。 倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する[要出典]が、畿内からは極わずかしか出土しない。ただし鉄に関しては淡路島の五斗長垣内遺跡や舟木遺跡で、鉄器製作の痕跡が確認された。 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗が海洋民ものである事。(奈良に海は無い) 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗が南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること。 「魏志倭人伝」の記述は北九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然。 「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北部九州の国より南側にあること。また、記紀には元伊都国王や元奴国王が北部九州征伐に行った仲哀天皇に降伏して、玉や剣など先祖伝来の神器を仲哀天皇に差し出したとの記述があること。すなわち邪馬台連合構成国だったこれらのクニグニはこの時点(4世紀半ば)で初めてヤマト王権に服属した(若井敏明:邪馬台国の滅亡)。 『旧唐書』では邪馬台国と日本国を別国として扱っていること。 かつて、畿内説の重要な根拠とされていたが、今は重要視されていない[要出典]説は以下である。 三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説 - しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上になること、中国社会科学院考古学研究所長王仲殊が「それらは漢鏡ではない」と発表したことなどから、九州説の側から「三角縁神獣鏡は全て日本製」との反論を受けた。 邪馬台国長官の伊支馬(いきま?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説 - 大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。
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