邪馬台国連合と纒向遺跡とは? わかりやすく解説

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邪馬台国連合と纒向遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 13:49 UTC 版)

ヤマト王権」の記事における「邪馬台国連合と纒向遺跡」の解説

白石太一郎は、「邪馬台国中心とする広域政治連合は、3世紀中葉卑弥呼の死による連合秩序再編や、狗奴国連合との合体に伴う版図拡大契機にして大きく革新された政治連合が、3世紀後半以後ヤマト政権ほかならない」と述べている。 その根拠として奈良県纒向遺跡当時畿内地方にあって小国連合中枢となる地であったとしている。この遺跡は、飛鳥時代には「大市」があったといわれる奈良盆地南東部三輪山麓に位置し都市計画痕跡とされる遺構認められ運河などの土木工事おこなわれており、政治都市として祭祀用具収めた穴が30余基や祭殿祭祀仮設建物検出し東海地方から北陸近畿・阿讃瀬戸内吉備出雲ならびにごく少数ながら北部九州土器搬入されており、また、広がりの点では国内最大級の環濠集落である唐古・鍵遺跡の約10倍、吉野ヶ里遺跡の約6倍におよぶ7世紀末の藤原宮匹敵する巨大な遺跡で、多賀城跡規模上回る可能性があるとしている。武光誠は、纒向遺跡こそが「大和朝廷」発祥の地としている。 纒向石塚古墳など、帆立貝型の独特な古墳帆立貝古墳。「纒向型前方後円墳」と称する)は、前方後円墳先だつ型式古墳で、墳丘90メートルにおよんで他地域はるかに凌ぐ規模をもち、また、山陰地方出雲)の四隅突出型墳丘墓吉備地方楯築墳丘墓など各地域文化総合的に継承しているとする。白石太一郎は、吉備などで墳丘の上立てられていた特殊器台・特殊壺が採り入れられるなど、吉備ヤマト盟友存在として重要な位置占めていたとしている。

※この「邪馬台国連合と纒向遺跡」の解説は、「ヤマト王権」の解説の一部です。
「邪馬台国連合と纒向遺跡」を含む「ヤマト王権」の記事については、「ヤマト王権」の概要を参照ください。

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