日本軍の撤収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 10:20 UTC 版)
常徳の占領を終えた日本軍は、第3期作戦として占領地を放棄して初期位置への撤退を始めた。第11軍の予定では3日以内に撤退開始のはずだったが、支那派遣軍司令部からの指示で撤収が延期され、12月11日に第3期作戦開始となった。これは、11月25日に台湾の新竹市が中国本土からの空襲を受けたこと(新竹空襲)をきっかけに、飛行場制圧のための大陸打通作戦の構想が浮上したため、作戦拠点として常徳を確保しておくべきとも思われたからである。結局は大陸打通作戦時にあらためて侵攻を行うことに決まり、今回は撤退することになった。 中国軍は、撤退を始めた日本軍に対して積極的な追撃を行った。中国側の反攻は11月下旬からずっと続いていたが、一層激しさを増してきた。日本軍の撤退が遅れたことで、中国軍は態勢を立て直すことに成功しており、有力な反撃を行うことができたのである。中国軍第132師団は、煖水街付近に日本軍が撤退援護に残していた宮脇支隊(独立混成旅団から抽出の軽装備の3個大隊基幹)を攻撃し、日本側が第13師団の一部を救援に送らざるをえないほどの力戦をした。中国側は12月22日までの追撃戦で日本軍に大損害を与えたと主張している。ただ、中国側も反撃局面でも大きな損害を受けている。 12月末までに、日本軍は作戦前の地点へと帰還した。常徳は再び中国軍の支配下となった。
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