アメリカ軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 16:17 UTC 版)
「ラリー・ソーン」の記事における「アメリカ軍人として」の解説
1954年、ロッジ・フィルビン法(英語版)に基づきアメリカ陸軍に入隊。この頃からラリー・ソーンという英語名を名乗り始めた。アメリカ軍人として勤務する間、彼はアルポ・マルッティネン中佐の名から「マルッティネンの仲間たち(フィンランド語版)」と通称されたフィンランド系将校のグループと親交を持った。彼らの多くはソーンと同様、亡命しロッジ法の下で入隊を果たした元フィンランド軍人だった。彼らは特殊部隊の創設に関与し、ソーンはスキーや登山、サバイバル戦術やゲリラ戦術の教官を務めた。その後、彼は空挺学校を卒業し、1957年にはアメリカ陸軍中尉、1960年には大尉となった。1958年から1962年にかけて、彼は西ドイツに配置された第10特殊部隊グループ(英語版)に参加し、イラン・ザグロス山脈における捜索救助任務に携わり、再び戦功が評価される。 1963年11月、彼は特殊部隊A-734に参加し、メコン・デルタで戦った。この戦いで名誉戦傷章を2度勲章を受けている。1965年には軍事顧問としてMACV-SOG、英語版該当記事(南ベトナム軍事援助司令部研究監視群)の教官となる。 1965年11月18日、特殊任務の最中、彼の搭乗していたヘリコプターがダナンから40kmの地点で撃墜された。すぐに捜索部隊が派遣されたものの、彼らは墜落地点まで到達出来なかった。少佐への昇進が決定した直後の出来事であった。 ベトナム戦争終結後も長らく彼の遺骨は発見されなかったが、1999年になってラリー・ソーンのものとされる遺骨が発見された。2003年6月26日、遺骨が本人のものと確認され、ラリー・ソーンはようやくアーリントン国立墓地に埋葬された。
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