アメリカ軍内部の不和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 06:51 UTC 版)
「クィーンストン・ハイツの戦い」の記事における「アメリカ軍内部の不和」の解説
ハルの失敗やディアボーンの遅れはあったものの、ヴァン・レンセリアの位置付けは強固に見えた。9月1日、ヴァン・レンセリアの元にはわずか691名の兵士がいたにすぎなかったが、直ぐに援軍が到着してそれなりの軍隊になった。自部隊は正規兵、志願兵および民兵を合わせて約6,000名となったのに加えて、アレクサンダー・スミス准将が1,700名の正規兵を従えて参軍した。しかし、スミスは職業軍人の士官であり、ヴァン・レンセリアの命令に従わうことを頑なに拒み、招集にも応じなかった。スミス軍は前線に到着するやいなや、ルイストンの本部に付くのではなく、バッファロー近くに布陣した。ヴァン・レンセリアに到着を報告せず、ただ「忙しい」と伝えていた。 ヴァン・レンセリアは、主部隊でナイアガラ川を渡りクィーンストン近くの高地を占領し、一方でスミスが後方からジョージ砦を攻める作戦を立てた。しかし、この作戦に対するスミスからの回答も無かった。本部で作戦会議を招集したときも、スミスからの反応が無く、その後直ぐに送った文書にも返事が無かった。「大至急で」送られた直接命令にも、無言の対応であった。人当たりの良い政治家であったヴァン・レンセリアは、軍法会議で戦闘の開始を遅らせるよりもスミス抜きで戦闘を開始することを選んだ。 10月10日、ヴァン・レンセリアは攻撃準備をしているルイストンにスミスの軍隊も「大至急」合流するよう命令を送った。攻撃開始は10月11日、日曜日の午前3時に設定されており、スミスは命令書の受け取りだけを送り返した。しかし、生憎の悪天候でスミスが選んだ道はぬかるんでおり、「道に貼り付いたように」見える荷車を棄てるしかなかった。10月11日午前10時、攻撃延期の命令がスミスに届いた。スミスはルイストンには向かわず、ブラック・ロックの宿営地に引き返し、10月12日にヴァン・レンセリア宛て文書でスミス軍は10月14日に再度動ける状態になると連絡した。攻撃計画は13日が予定されていた。 10月11日の攻撃延期の理由はヴァン・レンセリア軍内の脱走であった。その数日前、ヴァン・レンセリア大佐は川を渡って、ブロックの副官ジョン・マクドネル中佐が指揮するイギリス軍に攻撃を掛ける準備ができており、敵地を制圧するかなり良い考えだと思っていた。ヴァン・レンセリア大佐は熱が出ていたが、ヴァン・レンセリア将軍は10月11日に攻撃を掛ける決定を下した。しかし、アメリカ軍がその日の未明に隊列を組んで川を渡る準備が出来たとき、船を操船する一人であったシムズ中尉がその船を漕いで出て逃亡してしまった。しかも渡河に必要ななオールの大半も持って行ってしまった。代わりのオールが準備されるまで攻撃は延期された。ヴァン・レンセリア将軍は攻撃を10月13日に再設定した。
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