航空戦艦日向
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空母戦力を補填すべく、日本海軍は扶桑型戦艦と伊勢型戦艦の空母改装を決定した。だが時間的都合から扶桑型の改装は実施されず、伊勢型も全面空母改装は見送られ、後部の5番、6番の主砲を撤去して格納庫及び飛行甲板を設け、航空戦艦となった。重量軽減のため、副砲の50口径三年式14cm砲を全て撤去した。副砲は陸上砲台に転用され、呉鎮守府第六特別陸戦隊重砲隊が編成されている。ただし、通常の空母の半分以下の長さしかない飛行甲板では艦載機の着艦はできない。飛行甲板はもっぱら航空機整備・発艦作業用のスペースである。撤去された主砲弾薬庫の空間には、航空機用燃料庫と武器庫が設けられた。飛行甲板は鋼板の上にコンクリートを流したものが設置された(木甲板ではない)。「日向」を擁する第四航空戦隊に配備される予定の第六三四海軍航空隊は、水上偵察機瑞雲と艦上爆撃機彗星二二型を主力とする部隊で、日向には彗星14機・瑞雲8機が配属される予定であった。カタパルトで射出された彗星は攻撃後機体を消耗して空きのできた他空母や、近隣の陸上基地へ着陸するという運用が想定されていた。伊勢型航空戦艦とほぼ同速の空母信濃(大和型戦艦三番艦改造空母)と航空戦隊を組む予定だったという説もある。 日向の改装は1943年5月に開始、11月18日に完成した。この間、先に航空戦艦改装を終えた伊勢は航空機格納庫に大和型戦艦の46cm砲弾を積み込み、トラック泊地に物資・弾薬輸送を行っている。日向の改造完成後は伊勢と共に第十一水雷戦隊に編入され、内地で訓練に明け暮れる日々が続いた。1944年5月1日第四航空戦隊を編成し、松田千秋少将座乗の第四航空戦隊旗艦となる。6月7日に機銃増強のため呉工廠のドックに入るが、この間にアメリカ軍はサイパン島方面に来襲、日本軍との間にマリアナ沖海戦が勃発する。日向と伊勢は急遽工事を中止して出撃準備を整えるが、同海戦には間に合わなかった。 10月、アメリカ軍はフィリピン方面に進攻を開始した。10月20日、日向は捷一号作戦に参加して日本を出撃したが、搭載予定の第634航空隊は先の台湾沖航空戦によりフィリピン方面に転用されたために、日向と伊勢は航空戦隊でありながら搭載機は1機もなかった。小沢本隊の前衛部隊として松田支隊を編成、10月24日にはアメリカ艦隊との砲戦を試みるべく南下するも会敵機会に恵まれず、翌25日午前7時に本隊と再合流している。25日のエンガノ岬沖海戦において本隊は空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)を失う大損害を被った。その後アメリカ軍機の攻撃は健在な日向と伊勢に集中したが、松田少将発案の航空攻撃回避術と、それによる両艦長の巧みな回避運動、さらに航空戦艦に改装された際に大幅に増強された対空火力の効果もあいまってアメリカ軍の攻撃を回避した。アメリカ軍機撃墜6機確実を記録、艦に重大損傷はなく1名が戦死、8名が負傷した。日向は主砲三式弾112発、12.7cm高射砲弾659発、25㎜機銃弾28970発、噴進砲弾250発を発射した。10月29日、日本に戻った。 1945年(昭和20年)2月、戦略物資輸送作戦「北号作戦」で、カタパルトを撤去、更に機銃を一部撤去して現地部隊に引き渡し、石油・ゴム・錫などの希少な戦略物資を航空機格納庫のスペースを生かして満載した。全艦損害なく日本に戻るという奇跡的な成功を収めたが、物資総量は伊勢や軽巡洋艦大淀が輸送した分を含めても、中型貨物船1隻分に過ぎなかったという。
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