航空戦艦への大改装
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:40 UTC 版)
1942年5月、伊予灘で主砲射撃訓練中に「日向」の第5砲塔の装薬が砲塔内部で爆発、多数の死傷者を出す大惨事が起こった(死者55名)。砲塔を撤去した跡に鉄板で仮設の蓋を張り、その上に九六式25mm三連装機銃4基を設置した。 この後、ミッドウェー海戦における主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)喪失のため、雲龍型航空母艦(改飛龍型)を大量建造する改⑤計画を策定した。しかし、これら新規建造艦の就役は昭和19年後半以降と見積もられ、より短期間で空母戦力の増強を行うために、空母改装を前提とした艦艇の改装工事に着手すると共に既存艦の航空母艦改造を行うことになった。大和型を除く戦艦(金剛型、伊勢型、扶桑型、長門型)、巡洋艦(青葉型、妙高型、高雄型、最上型、利根型、川内型)が改装の検討対象となった。しかし、長門型は大和型に次ぐ主力艦であり、断念された。高速戦艦の金剛型改装は魅力的だったものの、研究の結果、工事量が多く改装に時間がかかりすぎると判断され除外された。もっとも戦力的に活用されていない扶桑型と伊勢型が候補に残った。だが、全通飛行甲板を持つ通常型航空母艦に改造するには一年半以上を費やす大工事が必要であることから、通常型航空母艦への改造は断念された。 そこで、一部の主砲塔を撤去して格納庫や航空機作業甲板を設置、射出機で艦上爆撃機を射出する航空戦艦への改装が代案として浮上した。軍令部の要望は、主砲は6門のみ、副砲撤去と対空兵装強化、多数航空機の搭載であった。改装対象にはやはり扶桑型と伊勢型が検討されたが、扶桑型よりも若干高速で、先の事故により第五砲塔を撤去中だった「日向」の工事にあわせて実施する事になった。十三試艦爆(彗星)の開発成功も航空戦艦への改装を後押しすることになったが、のちに十四試水爆(瑞雲)を本型の艦載機にすることに変更された。 当初、4番から6番砲塔までを撤去する案や3番から6番砲塔までを撤去する案も検討されたが、前者は5番・6番砲塔のみを撤去する案と搭載機数がさほど変わらないと判定され、後者は搭載機数を無闇に増やしても射出機による連続発艦(射出機2基を用いて1分間隔で射出する予定だった)では攻撃隊全機の発進に費やす時間も大幅に増して攻撃隊の行動半径が減少してしまう難点があり、最終的には工事期間短縮と資材節約のため、後部の5番・6番主砲塔のみを撤去する案で決定された。空母部分の概要は、上甲板から高さ6m、飛行甲板幅前部29m後部13m、長さ約70m、後檣附近にカタパルト2基を装備する。格納庫は閉鎖式で、断片防御は考慮されていない。航空機用の軽質油タンクは六番砲塔跡に設置され、111立方m、76トンの容量だった。航空機用弾薬庫は五番砲塔跡に設置され、全機3回分出撃分(50キロ爆弾44個、250キロ爆弾22個)を搭載した。飛行甲板は鋼板の上にコンクリートを流して固めた仕様だった。 また航空戦艦改装と同時に、副砲(14㎝砲16門)の全廃と、高角砲の増強(12.7㎝連装高角砲4基8門から計8基16門)、機銃の増強(25mm連装10基20挺から25mm三連装19基57挺)も行われている。連合艦隊の要望は25mm機銃100挺だったが、射界の確保、射撃装置との連動、機銃の生産力等の諸条件により、改装直後は25mm三連装19基におちついたという。その他、舵取機室周辺の防御力強化や燃料タンクの増設なども行い、航続距離は16ノットで9500海里に向上した。 伊勢型に対するこれらの改装は「伊勢」は呉海軍工廠で1942年12月23日に着手し、1943年9月5日に完了。「日向」は佐世保海軍工廠で1943年5月2日に着手して、1943年11月30日に完了した。この改装には、呉工廠で建造中止になっていた大和型4番艦「111号艦」を解体した資材が流用されている。また同艦建造中止により手空きになった艦政本部第一部と呉工廠砲熕部が伊勢型改装作業に加わることになり、搭載射出設備の設計と現場工事に投入された。なお、この後に扶桑型の航空戦艦への改装(扶桑は呉、山城は横須賀)も訓令済みだったが、昭和十八年六月に計画は中止された。航空戦艦となった「伊勢、日向」は輸送作戦に従事したあと、1944年(昭和19年)5月1日に「伊勢、日向」および第六三四海軍航空隊によって第四航空戦隊を編制し、第三艦隊に編入された。
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