航空戦略
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空域における戦略、すなわち空軍の戦略である。「航空優勢の確立」「陸上権・制海権の確立のための航空優勢の活用」という要点を持つ。ドゥーエらにより構築された。
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航空戦略
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源田は早くから航空戦力の価値に気付き航空主兵論を主張し戦艦無用論を唱えた人物の一人である。当時源田らの戦艦無用論は極端すぎると見られていたが、太平洋戦争の経過がその見通しがほぼ正しかったことを証明した。戦後源田は海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのは、組織改革での犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する「大砲がなかったら自分たちは失業するしかない。多分そういうことでしょう。兵術思想を変えるということは、単に兵器の構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。人情に脆くて波風が立つのを嫌う日本人の性格では、なかなか難しいことです」と語っている。 源田は「航空戦の有利とは制空権の獲得であって、戦闘機同士の戦闘で勝るという事であり、味方を自由にし相手の集団行動を不可能とさせることを目的とし爆撃機への攻撃は二次的なもの」「戦闘機での勝敗は撃墜数ではなく最後に戦場の支配権をどちらが握ったか、上空にどちらが残っているかという制空権の獲得にある」という。欧米機が行った垂直降下による離脱は、他の性能を犠牲にして機体の強度を増さなければならないので必ずしも得策とは言えない、逃げることを予期して機体を設計する手もない、優秀な技量の搭乗員なら再度の低高度での会敵で撃墜できるという。また、後期に日本機が劣勢になったのは、米軍機が緊密な連携をもってこちらを集団で個別撃破していることにあったという。 源田は支那事変において、「制空隊」の考案をはじめとする戦闘機の集団使用、遠距離進撃などで、それまで主として防御用と見られていた戦闘機を積極的に遠距離に進攻させて、軽視されていた戦闘機の価値を認識させた。源田はこの空中戦闘の主導権を「制空権」と名付けた。源田の名は米軍にまで伝わり、戦闘機を集団的に縦横に駆使して制空権をとり、攻撃隊の攻撃を容易にする戦術的用法や、空母部隊を集団的に使用する戦略的な用法は「ゲンダイズム」と称された。 源田の空母艦隊の用兵思想は、空母を集中運用することで、奇襲のために接敵行動中無線封止を行い、大兵力を集中し一挙に敵を撃滅し上空警戒により敵を阻止するというものである。集中運用の利点は、航空隊の統一指揮がやり易く空中集合も容易に行えるため、支那事変の戦訓より攻撃は集中しなければ効果が薄く飛行機隊の空中集合が必要だが、海上での集合は困難であり、また電波誘導などを行えば敵に所在が露見して隠密行動ができず奇襲が困難になるという問題が解決し、また各艦が近いため計画変更・修正の連絡を取りながらの隠密行動も可能になる点にある。発見された場合、敵機の襲撃を受け空母が一網打尽になるリスクもあるが、空母を守る直掩戦闘機や対空砲火も集中できるという利点で補う。孫子の兵理にも適っており「敵を待ち反撃で攻撃ということから、集中は待つを恃む分散は来たらざるを恃むであり、人に遅れて発し人に先んじて至る」という。真珠湾攻撃では長所を発揮し米海軍も戦争後半で採用して効果を発揮した。「ミッドウェーで50機編隊をほぼ撃墜し1本の魚雷も命中させず、マリアナでは敵が使いこちらがやられており集中配備自体は有効だった」という。しかしミッドウェー海戦では弱点も露呈した形になっており戦闘機と防御砲火の用法について深く研究すべきだったという。 源田はミッドウェー以後は心を鬼にして見敵必戦を信条にした。海軍大学生のころは批判的であり楠木正成の例を挙げて論証したこともあるが、天才の機微を誰もが判断できるものではなく見敵必戦は必勝ではないが勝機を逃すことがなく、攻勢の利もあるという。
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