航空戦での活躍
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1937年8月上旬、日中両軍の本格的な衝突が秒読みとなり中国空軍に出動命令が下された。第5大隊(第24中隊・第25中隊)は揚州へ進出の命を受け、8月5日、部隊は南昌を発進し揚州へ移動した。8月13日、上海の日本海軍が中国空軍への徹底的攻撃を指令し、中国空軍も空軍作戦第一号令を発して翌日からの攻撃を準備した。 8月14日、第5大隊のカーチス・ホークⅢは第2大隊とともに爆装して出撃した。第24中隊の8機は、長江をさかのぼり上海へ向かう日本海軍の駆逐艦へ次々に爆弾を投下した。しかし緩降下爆撃のために回避され、最後の一弾が艦尾に命中したが駆逐艦は傾斜したまま退避した。その後、劉は揚州に戻ると再び爆弾を付けて上海の日本海軍陸戦隊本部を爆撃した。 8月16日に劉は日本軍の九五式水上偵察機を1機撃墜、これが劉の初の個人撃墜記録となった。 8月21日未明、日本海軍の九六式陸上攻撃機6機(吉田小隊3機、入間小隊3機)は揚州基地を奇襲した。出撃準備中だった第5大隊はただちに迎撃のため発進した。真っ先に追撃した劉は、すぐに12.7mm機銃で陸攻1機を撃墜し、その後僚機と協力して吉田小隊を全滅させた。これまでの戦いによる健闘で、劉粋剛を始めとする日本機撃墜者たちは「飛将軍」と称えられた。 9月7日、劉は太湖上空で空母「加賀」「鳳翔」の艦上戦闘機隊(複葉機と九六艦戦のおよそ9機)に遭遇した。劉は地上攻撃中の僚機6機を援護するため、単機で日本戦闘機隊へ攻撃をかけた。後ろへ付かれた劉は連続急上昇を駆使して相手の後ろを取り、九六式艦上戦闘機を撃墜した。その後日本機に取り囲まれた劉は、攻撃をかわしながら残弾の斉射でもう一機の戦闘機を墜とすと、黒雲の中に逃れて離脱した。この太湖上空での劉の戦果は、「鳳翔」の戦闘詳報が失われ、「加賀」も簡略的な記録しか残されていないため、日本側の史料からは確認できていきない。 9月22日の南京防空戦では、中央党部空爆に飛来した十三空の九六式艦上爆撃機12機・九六艦戦5機を第4大隊・第5大隊のホークⅢ21機が迎撃した。劉の率いる9機は白相定男大尉(兵56期)の艦爆隊を襲った。劉は投弾直後の九六艦爆を銃撃、被弾した艦爆は棲霞山に墜落した(日本側の記録によれば第三小隊3番機、岩瀬一空兵の機である)。 10月12日の南京空戦では2機を共同撃墜。その様子は宋美齢も目撃していた。 劉粋剛の撃墜記録は、確実11機、不確実2機の合計13機を数え、事実上のトップエースとなった。劉はその勇猛ぶりから空軍五虎将の一人といわれ、太湖上空の空戦では多数の日本機を相手に戦ったことから「空の趙子龍」とさえ呼ばれるようになった。劉の多大な戦功を讃え、国民政府、中央航空委員会、中国空軍総司令部などが七星星序奨章と二等宣威奨章を授与した。
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